オンライン授業/西ヨーロッパ地域研究A「ラングドック・ルシヨンの歴史と文化」
第7回/6月30日(火)
ガール県とロゼール県のロマネスク教会(前半) ガール県
(※ページの画像がうまく読み込まれない場合は、再読み込みすると、ちゃんと表示されると思います)
今回は、前半がガール県(Gard)、そして後半がロゼール県(Lozère)の
中世ロマネスク教会についてお話しします。
「ロマネスク」とはどういうものか、ということについては第5回の授業の「前半」で
説明しましたので、確認したい人は、そのページを見て下さい(まだしばらくは削除しません)。

①ニームのノートル=ダム=エ=サン=カストール大聖堂
(Cathédrale Notre-Dame-et-Saint-Castor de Nîmes)

ニームは、この授業の第4回(前半)で、古代ローマ時代の都市として紹介しました。
ローマ帝国が476年に滅びて時代が中世となった後も、
ニームはラングドック北部地域では最も重要な都市であり続けました。
トゥールーズ伯家、トランカヴェル家、アルビ副伯家などが次々と
ニームを支配しますが、中でも最も強力だったのがトゥールーズ伯でした。
キリスト教の教会としては、「ニーム大聖堂」が最も重要です。
「大聖堂」とは、単に「大きな教会」という意味ではありません。
「司教」がいる教会のことを、日本語で「大聖堂」あるいは「司教座教会」というのです。
フランス語では「カテドラル」(Cathédrale)と言います。
「司教」とは、キリスト教聖職者の中でも、ある一定の地方を管理・監督する幹部聖職者で、
その地方の一番重要な都市にいて、「大聖堂」の儀式・運営一切を取り仕切る責任者です。
ちなみに、今の日本には16の司教区が置かれていて、
そのうち東京、大阪、長崎に3人の「大司教」がいます。
「大司教」は「司教」よりもさらにランクの高い上級幹部です。
東京大司教区の大聖堂(カテドラル)は東京都文京区にある「関口教会」で、
東京の大司教の管轄は東京都と千葉県です。
横浜司教区は、山手教会がカテドラル(大聖堂)で、
横浜司教が管轄するのは、神奈川、山梨、長野、静岡です。
さて、話を南フランスのニームに戻しましょう。
ニーム大聖堂は、正式には「ノートル=ダム=エ=サン=カストール大聖堂」と言い、
聖母マリア(ノートル=ダム)と、4~5世紀の南仏の聖人である聖カストリウスに捧げられています。
古代ローマ時代の神殿の跡に建てられたと言われています。
ロマネスク様式で建設されたのは12世紀(西暦1100年代)です。
1096年に完成し、ローマ教皇ウルバヌス2世が献堂式(聖堂を神に捧げる儀式)をしています。
その後、16世紀の宗教戦争(カトリックとプロヴァンスの間の争い)の時に被害を受け、
17世紀から再建工事が行われました。
なので、大聖堂の建物の本体部分(身廊と後陣、写真下・左)は、
17世紀以降の比較的新しいものですが、
西ファサード、つまり大聖堂西側の正面部分(写真下・右)は、
12世紀のロマネスク時代のものが残されています。

ニーム大聖堂(西ファサード) ニーム大聖堂(内部) 2019.2.20
ニーム大聖堂の西ファサードは上の部分に、
古いロマネスク時代のフリーズ(水平に付けられた帯状彫刻)が残されています。
このフリーズ部分がすべて古いものではありませんが、その一部は12世紀のロマネスク期のものです。
それぞれ『旧約聖書』から題材を取ったエピソードの場面となっています。
以下、それらを見ていきましょう。

◆アダムとイヴ。蛇の誘惑(la Tentation d'Adam et Ève)

『旧約聖書』の一番最初の『創世記』に出てきます。
神によって作られた最初の人間であるアダムと、さらに彼から作られたエヴァ(イヴ)は、
エデンの園に住んでいましたが、神から食べるのを禁じられていた生命と善悪の知識の木の実を
蛇にそそのかされて食べてしまいます。
この罪を「原罪」と言います。
人間の最初の罪です。消すことの出来ない罪です。
アダムとエヴァの間にその木があって、そこに蛇が巻きついて二人を誘惑しています。
二人はまだ裸のままです。
◆叱責(la Réprimande)

善悪の知識の木の果実を食べてしまったことで、
二人は自分たちが裸であるということに気がつきます。
そして神の前に出るのをためらって、植物の葉で体を隠しています。
神は「おまえたちは何ということをしたのだ」と言って叱責します。
◆楽園追放(l'Expulsion du Paradis)

神の命令に背いたことを責められ、二人は楽園から追放されます。
画面右側ではも二人が神によって楽園の外に押し出されています。
二人は衣服を着ていますね。もう裸ではありません。
画面の左には、その楽園の入口を閉じるために、神が置いた
ケルビム(智天使)がいます。ケルビムは「炎の剣」を持っています。
◆カインとアベルの捧げ物(le Sacrifice d'Abel et de Caïn)

旧約聖書『創世記』第4章に出てくるエピソードです。
アダムとエヴァの息子である兄のカインは農耕者、弟のアベルは牧畜者でした。
ある日、二人は神に捧げ物をします。
カインは畑で取れた収穫物(画面左)を、アベルは子羊(画面右)を捧げました。
二人の間には神を表す「手」が上(天)から現れています。
ロマネスクの彫刻では、神はしばしばこうした「手」で表現されます。
神は二人の捧げ物のうち、カインの捧げ物を無視し、
アベルの捧げ物(子羊)にだけ目をとめました。
上の彫刻では、神の「手」は、アベルの捧げる子羊を指で握っています。
◆カインによるアベルの殺害(le Meurtre d'Abel)

神が自分の捧げ物を無視し、弟のアベルの捧げ物だけに関心を示したことを
恨んだカインは、アベルを野原に誘い出して殺してしまいます。
人類最初の殺人と言われます。
しかしそのためにカインは、神の怒りを買って追放されてしまうのでした。
中世の民は、文字が読めません。本も読めません。
なので教会は、こうした『聖書』のエピソードを教会の建物に彫刻して、
キリスト教のさまざまな教えを、人々に示したのでしょう。
言わば、中世の「視聴覚教材」ですね。
②サン=ジル大修道院付属教会(Église abbatiale de Saint-Gilles du Gard)

サン=ジルの街の紋章は今でも「鹿と矢」。ただし矢は刺さっている。
言い伝えによると、8世紀(西暦700年代)、
ギリシアから南フランスにやって来た隠修士(人里離れたところで一人孤独に修行をする修道士)の
ジル(ラテン語ではアエギディウス)は、この地の洞窟で一人で暮らしていました。
食べ物は雌(メス)の鹿が運んできました。
ある日、この地を支配していた領主が狩りをしてこの鹿に矢を放ちました。
しかし聖ジルがこの矢を空中で止めて(あるいは自分の手に矢を受け止めて)鹿を救ったのです。
矢を放った領主はこの奇跡にいたく感動し、聖ジルへの尊敬の気持ちから
この地に大修道院を創建しました。
聖ジルが亡くなって彼の墓の上に教会が建てられると、そこは熱烈な巡礼の対象となりました。
またここは、中世においてスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう
4つの巡礼路のひとつの中継地点でもあったために、ますます盛んな巡礼地になりました。
さらにローマ教皇やトゥールーズ伯の保護と援助も得て、とても繁栄しました。
12世紀が絶頂期です。しかし13世紀頃から衰退が始まりました。
サン=ジル教会の地下礼拝堂にある聖ジルの墓(2004.3.11) 聖ジルと鹿
このサン=ジル教会(サン=ジル大修道院付属教会)で最も有名なのは、
西ファサード(正面ファサード)です。
12世紀中頃の建設ですが、あきらかに古代ローマ文明の凱旋門の影響を受けています。
下の写真を比べれば一目瞭然ですね。
古代ローマの凱旋門を、教会建築で再現したと言ってもいいかも知れません。
ただし、扉口の脇に並ぶ人物像の列が、ロマネスク的な新しい要素だと言われます。
古代の凱旋門には、人物像の列は見られませんね。

サン=ジル修道院教会(南フランス・ガール県、2019.2.17)

古代ローマ時代のコンスタンティヌスの凱旋門(イタリア・ローマ)
サン=ジル教会のこのファサードは、
建物の上の部分が、17世紀に建物の高さを低くするために
取り壊されてしまったにもかかわらず、
南フランスのロマネスク建築の中でも、最も見事なものであると言われています。
付け柱や柱廊のある半円アーチの載った入口が3つ並んでいます。
ここでは中央の入口の上の半円形の「タンパン」にある「栄光のキリスト」と、
入口の向かって左下にある「カインとアベル」の彫刻を見ておきましょう。

「栄光のキリスト」(下の写真)は、頭からギラギラと聖なる光を発するキリストが、
もくもくとした雲にかかる虹の上に座っています。
マフラーのようなものが風にたなびいています。
キリストは顔を横に向けています。
このような図柄は、他のロマネスク教会のタンパン彫刻ではあまり見ない珍しいものです。
キリストの顔がそげ落ちてしまっていて、表情が分からないのが残念です。

キリストは大きな楕円形の聖なる光のマンドーラの中にいて、
その周囲を4人の福音書記者に囲まれています。
この授業の第5回後半で見たものと同じですね。
ヨハネ:ワシ
マタイ:人間(あるいは天使)
マルコ:ライオン
ルカ:雄牛
ただしマタイ(左上)だけは、彫刻が破損していて、その形がよく分かりません。
次は『旧約聖書』の「カインとアベル」です。
このエピソードは、上の「ニーム大聖堂」のところでも出てきました。

カイン(右)とアベル(左)が神に捧げ物をする場面です。
天から差し出される神の手は、アベルが捧げる子羊の方を向いています。
カインとアベルの左右の位置が、ニーム大聖堂のフリーズ彫刻とは逆になっていますね。
そしてカインがアベルを殺害する場面です(下)。
カイン(左)がアベル(右)に剣を刺しています。
ただ、アベルの顔は破損していて分かりにくいのが残念です。

③サン=ヴィクトール=ラ=コストの城塞礼拝堂
(Chapelle du Castellas, Saint-Victor-la-Coste)

前半のガール県最後は、領主がいた城に建てられた教会を取り上げておきましょう。
場所は上の地図の星印のところです。アヴィニヨンから北西へおよそ20キロです。
11世紀から12世紀にかけて、このあたりを支配していたサブラン家が、
この村を見下ろす山の上に城を築いていました。建設は1125年頃と言われています。
ここは遠くはローヌ川まで見渡せる要害の地でした。

サン=ヴィクトール=ラ=コスト城塞(2005.3.1)
13世紀、異端カタリ派討伐のためのアルビジョワ十字軍(これについては次回・
第8回の授業で取り上げます)と戦って敗北し、サブラン家は没落します。
このあたりを獲得したフランス国王の代官によって、この城も破壊されてしまいました。
城は、城下の村から山道を歩いて登ります。
当然ですが、その土地や村を支配していた領主は、防御という観点から、
山の上や、簡単にはアクセスしにくい場所に城塞を築きました。
山道を20~30分ほど歩いて登ると、ようやく城の城壁にたどり着きます。

城にいた城主とその家族、そして家臣たちも、
日常生活を送る際に、教会での礼拝が欠かせませんでした。
いちいち城下の村の教会まで下りていってまた帰ってくるというのは面倒です。
領主・貴族なので、農民たちと一緒に教会のミサに出るというのもプライドが許しません。
なので、彼ら封建領主・城主たちは、
しばしば城の中に教会を作って、自分たち専用で利用したのです。
この城の城塞礼拝堂(城塞教会)は、下の写真の赤い矢印で示した四角い建物です。
12世紀・ロマネスク期のものです。

このサン=ヴィクトール=ラ=コストの城は、中はほとんど当時の建物は残っていませんが、
城塞礼拝堂だけは、その後の修復作業もあって、ちゃんと残っています。
小さな礼拝堂です。
半円形の大きな壁アーチが左右に付き、一番奥の内陣も半円形の大きなアーチがあり、
その下に祭壇があります。半円頭形の縦長の窓が中央に開けられています。
城にあるこのての礼拝堂や小教会は、多くの場合、領主や城主が自分で作った私有教会でした。
司祭は、ローマ教会に認められた正式な司祭を連れてくることもあれば、
家族や親戚から選んだ人間を適当に(勝手に)司祭にして、
礼拝・儀式を行わせていたりすることもありました。
もう何でもあり、ですね(笑)。

サン=ヴィクトール=ラ=コスト城塞礼拝堂(2014.3.12)
今から900年も前、城主とその家族たちのこの城での生活は、いったいどんなだったのでしょうか?
そしてこの礼拝堂で、どんな祈りを捧げていたのでしょうか?
戦争に行って敵を殺し、その罪の許しを神に祈っていたのでしょうか?
そして「さぁ、明日からはまた戦いだ、神よ無事にこの城に帰って来れますように、アーメン。」
みたいな感じだったのでしょうか。
そうしたサブラン一族の者たちも、900年前の歴史の彼方に消え去ってしまいました。
われわれには、彼らの人生を、ただ想像してみることしか出来ません。
| →第7回の後半に続く |
オンライン授業「西ヨーロッパ地域研究A」の最初のページに戻る
中川研究室ホームページ/TOPページへ