オンライン授業/西ヨーロッパ地域研究A「ラングドック・ルシヨンの歴史と文化」

第8回/7月14日(火)
異端カタリ派とアルビジョワ十字軍                 
 
(※ページの画像がうまく読み込まれない場合は、再読み込みすると、ちゃんと表示されると思います)
 


今回は、12世紀から13世紀を中心に、南仏ラングドック地方で広がった
キリスト教の異端カタリ派
それを討伐するために行われた
アルビジョワ十字軍についてです。

           


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【年表】
1165年 この頃、カタリ派はトゥールーズを中心とした高ラングドック地方に広がる。
1204年 教皇インノケンティゥス3世、特使ピエール・ド・カステルノーを派遣。
1208年 教皇特使ピエール・ド・カステルノー暗殺(1月15日)。
1209年 アルビジョワ十字軍、南下。
     
ベジエの陥落と大虐殺(7月15日あるいは21日)。
     カルカッソンヌ、2週間の抵抗の後に陥落(8月15日)。
1215年 トゥールーズ陥落(6月)、レーモン6世逃亡(イギリス王の保護下に)。
1217年 レーモン6世、トゥールーズを奪還(9月13日)。
1218年 シモン・ド・モンフォール、トゥールーズで戦死(6月25日)。
1226年 フランス国王ルイ8世、十字軍遠征(6月)。ラングドックを占領。
1228年 ルイ9世(実際は摂政である母ブランシュ)が十字軍を継続し、トゥールーズを奪う。
1229年 レーモン7世、降伏。アルビジョワ十字軍集結。
1240年 ペイルペルテューズ要塞の陥落(11月16日)。
1244年 
モンセギュール陥落(3月16日。10ヶ月の籠城ののち)。
1248年 トゥールーズ伯レモン7世死去。ラングドックは王領に編入。
1350年 ラングドックの異端審問所、活動終止。カタリ派根絶。
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宗教において
「異端」(英語:heresy/仏語:hérésie)とは、
正統派が掲げる教義・教理に対して、それとは異なったりそれに反するような
主張を行う一派に対して与えられるレッテルのことです。
「異端」と「異教」は違います。
「異教」とは、その宗教とは全く異なる宗教のことです。
キリスト教から見て、古代ギリシア・ローマの宗教やイスラーム教は「異教」です。
「異端」は、あくまでもキリスト教の内部にあって、正統派とは異なる教義を信じる者たちのことです。


①異端カタリ派とは                           
カタリ派は、12世紀から13世紀を中心に、ラングドックで広がったキリスト教の異端の一派です。
極度に禁欲的な戒律を守りました。
最も早い記録では、1017年に、これは北フランスのオルレアンでカタリ派が発見されています。
そのすぐ後くらいに、南仏のトゥールーズで見つかっています。
その後トゥールーズからラングドックの地中海地方まで、急速に拡大しました。



ではカタリ派の主張・教義とはどのようなものだったのでしょうか?

◆基本原理は「善悪二元論」
キリスト教ローマ・カトリックの正統派が、神はただひとりとするのに対して、
カタリ派では「善神」と「悪神」を想定します。

◆この現実世界はすべて「悪神」に属する
この世は全て「悪」です。
人間は、「善神」の霊魂が「悪神」に捕らえられて肉体という「牢獄」に
閉じ込められたものだと考えます。

◆いっさいの世俗生活を否定
結婚、ものの所有、肉食、殺生、生殖などすべて否定しました。
家族や誓約(約束)、権力なども認めません。
しばしば断食して苛烈な苦行を実行しました。

◆自殺の慣行
この世も、人間も、肉体もすべて否定するので、極端な場合には自殺を遂行しました。
(ただしこれはカトリックの弾圧に際して進んで火刑の火の中に入ったことなどを指しているようです)

◆ローマ・カトリック教会の否定
カタリ派は、ローマ・カトリック教会を「悪魔の教会」として攻撃しました。
また『旧約聖書』は、悪の世界であるこの世を創造した「悪神の書」として排撃しました。
十字架ですらキリスト殺害の記憶を呼び起こすとして嫌いました。

◆独自のカタリ派の教団
独自の組織を作って、これを「キリストの真の教会」と呼びました。
そのトップにはカトリックと同じように「司教」がいました。
この「真の教会」で信者となって戒律をまっとうすると、
カタリ派信者の霊魂は「悪神」の世界から解放されて天界に戻れると信じました。
それ以外の人間は、「時の終わり」に地獄に墜ち、黒い火で焼き尽くされるとされました。

◆完徳者(パルフェ)
ただし、極端な禁欲主義と過酷な修行に身を投ずるのは、「完徳者」と呼ばれるリーダーたちでした。
彼らは私有財産をいっさい持たず、完璧な禁欲を実践し、絶対的貞潔による模範的生活を行いました。
輪廻転生を信じ、一切の殺生を禁じたので、絶対的な菜食主義者でした。
一般の信者(帰依者・クロワイアン)たちは、彼ら「完徳者」を敬い、最高の敬意を表しました。
女性の「完徳者」もいたようです。


②南仏におけるカタリ派の拡大                       
なぜこうした過激な禁欲思想のカタリ派が、南フランスのラングドック地方で拡大したのでしょうか?
いろいろな説が唱えられていますが、実はまだよく分かっていません。
いつくかの説を紹介しておきます。

・南仏のこの地方の騎士たちが多く参加した東方への十字軍による影響だ。
・12世紀のローマ教会聖職者の生活の無規律化・腐敗が、この地方で特にひどかったからだ。
・カトリックの修道院改革が、この地方で遅れていたからだ。
・この地方は地中海を介した商業が盛んで、外国からの新しい思想が入ってきやすかったからだ。
・この地方で盛んだった毛織物業を営む商人や職人たちの考え方にマッチしたからだ。
・この地方で発達した「トゥルバドゥール」(宮廷を渡り歩く吟遊詩人たち)が関係しているのだ。
・この地方の封建領主たちが、ローマ・カトリック教会の教会財産を欲してカタリ派を擁護したからだ。


この一番最後の、カタリ派を保護・擁護した封建領主の代表格が、
トゥールーズ伯でした。
トゥールーズの場所は、一番最初に掲げた地図を見て下さい。
しかも、トゥールーズ伯の勢力範囲は、その地図で示したカタリ派拡大地域の赤い線で示した範囲と
ほぼ重なるのです。


③アルビジョワ十字軍                           
さて、いよいよアルビジョワ十字軍の話になります。
異端カタリ派は別名
「アルビ派」とも呼ばれたので、それに対する討伐十字軍を
「アルビジョワ十字軍」と呼ぶようになりました。

ここで登場する主要なキャストは以下の通りです。

ローマ教皇インノケンティゥス3世
レスター伯シモン・ド・モンフォール
トゥールーズ伯レーモン6世・7世



(↑)まず
ローマ教皇インノケンティゥス3世です。
彼は南フランス・ラングドックでの異端カタリ派の急拡大に苦慮し、
1204年、
教皇特使ピエール・ド・カステルノーを派遣します。
そしてラングドックの大領主であったトゥールーズ伯レーモン6世に異端をなんとかしろと迫ります。

しかし1208年1月15日、トゥールーズ伯の家臣の一人が、サン=ジルで
教皇特使ピエール・ド・カステルノーを殺害してしまいました。
サン=ジル大修道院の地下クリプトには、ピエール・ド・カステルノーの墓が残っています。
サン=ジル大修道院は、この授業の第7回前半の「ガール県のロマネスク聖堂」で出てきましたね。

  
サン=ジル大修道院                            ピエール・ド・カステルノーの墓

教皇特使を殺されたインノケンティゥス3世は、
今度はフランス国王フィリップ2世に、異端撲滅のための十字軍を派遣するように要請します。
フィリップ2世は、他の外交問題に忙殺されていたため、代わりに
イギリスのレスター伯でありかつ北フランスのモンフォール=ラモリーの領主でもあった
シモン・ド・モンフォールが総指揮官として、
異端撲滅のための十字軍を率いてラングドックを攻めることになりました。

シモン・ド・モンフォール

1209年の6月、ヨーロッパ各地から集まった騎士や領主たち、兵士たち、そして大勢の傭兵たちが
ラングドックに向けて南下して行きます。その数、
総勢30万とも言われています。
彼らは、これから犯す罪に対して、教会から
事前の免罪を受けていました(ひどい話ですね)。

この頃、トゥールーズ伯レーモン6世は、教皇特使殺害を謝罪して十字軍側に参加していました。
後に総指揮官シモン・ド・モンフォールらと対立し、十字軍から離反し、これと戦うようになります。


④ベジエの大虐殺                            
1209年7月初め、十字軍はローヌを渡って、モンペリエに進出し、数日間滞在しました。
そしてその後7月21日、
ベジエ(Béziers)に達しました。

  
                           
ベジエと中世の橋


ベジエの住民たちは、十字軍側にカタリ派を引き渡すことを拒否します。
ベジエの領主は、カルカッソンヌおよびベジエの副伯で、
トランカヴェル家のレモン・ロジェ、25歳でした。
レモン・ロジェは、自分が領主であるベジエを何とか十字軍から守ろうと交渉しますが、
無駄に終わりました。

7月22日、ベジエの街になだれ込んだアルビジョワ十字軍兵士たちは、
街の住民のほとんどを虐殺しました。
少なく見積もって3万人、多く見積もると10万もの老若男女が殺されました。
異端カタリ派信者も、カトリック信者も
区別なく、殺されました。
一説によると、殺されたのはカタリ派よりも
カトリック信者の方が多かったとも言われます。
マドレーヌ教会の中に逃げ込んだ7000人の住民も、
教会の中ですべて殺されました。

  
                   ベジエ・マドレーヌ教会の外部と内部(2018.5.26)

十字軍兵士が、十字軍に従軍していたキリスト教指導者で、
シトー修道会院長アルノー・アマルリックに
「異端カタリ派信者とカトリック信者をどう見分ければいいのか」と訪ねたところ、
アルノー・アマルリックが
「すべてを殺せ。神は神のものを知っておられる」
と答えたことは、あまりにも有名です。

死んだ後、天国に迎えるべきカトリック教徒は、
神がちゃんと見分けられるのだから、安心して殺せ、という意味でしょうか。
こうした言葉が聖職者から発せられて、皆殺しが行われるというのですから、
キリスト教というのはいったい何なのかと思ってしまいますね(ただしこの言葉が
史実かどうかは確かなことではないとも言われています)。

ベジエ・マドレーヌ教会での大虐殺


⑤カルカッソンヌの戦い                       
ベジエで住民の大虐殺を行った後、アルビジョワ十字軍は、
1209年8月になって、今度は
カルカッソンヌ(Carcassonne)を攻めます。
城壁に囲まれたカルカッソンヌは、今では世界遺産にも指定された有名な城塞都市です。

  
                                       城塞都市カルカッソンヌ

カタリ派と住民たち、そしてこの街の騎士たちは、籠城を続けますが、
季節は暑い夏の8月でした。日照りのために城内の井戸がかれてしまいました。

先に少し出てきた領主トランカヴェル家のレモン・ロジェは、和議の交渉のために
十字軍の本営に行きますが、捕まって拘留されます。
これを聞いた住民たちは、立てこもっていたカルカッソンヌの城塞を放棄して退去します。

    
街から退去させられるカルカッソンヌのカタリ派住民    リドリー・スコット総指揮・歴史ドラマ『ラビラント』(2012年)
                            トム・フェルトン演ずるレモン・ロジェ



レモン・ロジェもこの頃亡くなったと言われています。
十字軍の総指揮官シモン・ド・モンフォールによって殺されたのではないかとも言われます。
そのシモン・ド・モンフォールは、レモン・ロジェの領地とその支配権を、
ガッポリ自分のものにしてしまいます。


⑥トゥールーズ(Toulouse)攻防戦                      
この後、アルビジョワ十字軍は
第2局面とも言うべき段階に入ります。
それまではフランス国王・ローマ教皇、そしてアルビジョワ十字軍の側に立っていた
ラングドックの大領主
トゥールーズ伯レーモン6世が、
1211年あたりから十字軍側と対立するようになり、
レーモン6世は十字軍側から敵視されるようになります。
そして
トゥールーズが今度は十字軍の攻略対象となったのです。
1215年から1229年まで断続的に、本拠地トゥールーズを巡って、
トゥールーズ伯と十字軍の間で、取ったり取られたりの攻防戦が繰り広げられました。

なお、1218年6月25日には、十字軍の総指揮官シモン・ド・モンフォールが、
トゥールーズ攻撃の最中に
あっけなく戦死しています。

トゥールーズ伯
レーモン6世とその息子レーモン7世は、
十字軍やフランス国王(この頃はルイ8世、ルイ9世)と戦いを続けますが、
結局は敗退することとなり、その後、トゥールーズ伯領は、
フランス国王が接収してすべて王領となります。
アルビジョワ十字軍で一番オイシイ思いをしたのは、フランス国王かも知れませんね。

  
トゥールーズ伯レーモン6世            レーモン7世


⑦カタリ派の終焉・モンセギュール陥落                  

1240年代に入っても、カタリ派の活動は、ラングドックの南、
ピレネー山脈に近い地方で続いていました。
カルカッソンヌから南へピレネー山脈にかけての山々には、
「カタリ派の城」と呼ばれる城塞が数多くあります。
ほとんどが廃墟となっていますが、何かしらロマンチックなイメージとともに、
現在でも観光客がたくさん訪れる場所となっています。

  
カタリ派の城                           ペイルペルテューズ城(2017.8.17)


1240年11月、そうしたカタリ派の城のひとつ、
ペイルペルテューズ城が陥落します。
続いて1243年、カタリ派は事実上最後の砦とも言える
モンセギュールの城に立てこもります。
モンセギュールは、現在のアリエージュ県(オード県の西)の峻険な山の頂上に建てられた
難攻不落の城塞でした。

  
岩山の上がモンセギュールの城                  城の内部(2003.8.27)


この城に、200人以上のカタリ派信者が立てこもって抵抗します。
これを攻めた攻囲軍は1万とも言われています。
カタリ派は頑強に抵抗しましたが、しかし10ヶ月の籠城の末に、ついに降伏し、
カトリックに改宗することを拒否した
カタリ派信者(完徳者)210名が、
その場で火刑に処せられました。
カタリ派最後の悲劇
として知られる事件です。

  
モンセギュールでの火刑                     ルネ・ネッリ『カタリ派事典』の表紙


モンセギュール陥落の頃以降、ラングドックにおける
異端審問所(Inquisition)の活動が活発化します。
異端審問所とは、異端を見つけ出し、異端を裁き、
異端と認められて有罪判決を受けたものを罰することを任務としています。
最も重い刑は、火刑(火あぶり)による処刑でした。
カタリ派に対する異端審問から始まったと言われています。
中世では
スペインの異端審問所が有名ですが、カタリ派に対するものも過酷を極めました。
しかし1350年頃には
カタリ派が根絶されたとして、
ラングドックの異端審問所も活動を停止しました。

そのあまりの厳しい清純な思想と禁欲の戒律をいただくカタリ派の人々は、
12世紀にあたかも彗星のように現れ、200年ばかりの輝ける活動ののち、
教会と世俗の大きな力によって、忽然とこの世界から消し去られたのでした。
しかし彼らの存在と活動は、数百年の時を超えて、ひとつの伝説として
今日のわれわれに脈々と伝えられているのです。

       
              モンセギュールにあるカタリ派の碑(2003.8.27)


今回は前半・後半に分けていないので、これで終わりです。
次回はカミザール戦争、ジェヴォーダンの狼、スティーヴンソンとロバの旅です。


 今回は、小コメントなどの提出はありません。

 ※第10回(7月28日)の後で最終レポートの提出 があります。

 次回は7月21日(火)の午前中(11~12時頃)に、
 第9回目の授業内容をこのサイトにアップします。
 http://languedoc.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。



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【第8回の授業の参考文献】

小田内隆『異端者たちの中世ヨーロッパ』NHK出版、2010年。
今野国雄「正統と異端」『岩波講座・世界歴史10・中世ヨーロッパ世界2』岩波書店、1970年。
佐藤賢一『オクシタニア』集英社、2003年。
佐藤彰一『剣と清貧のヨーロッパ-中世の騎士修道会と托鉢修道会』中公新書、2017年。
甚野尚志『世界史リブレット20/中世の異端者たち』山川出版社、1996年。
原田武『異端カタリ派と転生』人文書院、1991年。
堀米庸三『正統と異端-ヨーロッパ精神の底流』中公新書、1964年。
渡邊昌美『異端カタリ派の研究-中世南フランスの歴史と信仰』岩波書店、1989年。
渡邊昌美『異端者の群れ-カタリ派とアルビジョア十字軍』八坂書房、2008年。
渡邊昌美『異端審問』講談社現代新書、1996年。
渡辺昌美「カタリ派とアルビジョア十字軍」『岩波講座/世界歴史10/中世ヨーロッパ世界2』
                            岩波書店、1970年。
チャス・S・クリフトン『異端事典』田中雅志訳、三交社、1998年。
ギー・テスタス&ジャン・テスタス『異端審問』安斎和雄訳、文庫クセジュ、白水社、1974年。
フェルナン・ニール『異端カタリ派』渡邊昌美訳、文庫クセジュ、白水社、1979年。
ジル・C.H.・ニューレンズ『正統と異端/第一巻:異端カタリ派』高橋健訳、無類出版、2006年。
ルネ・ネッリ『異端カタリ派の哲学』叢書ウニベルシタス547、
                          柴田和雄訳、法政大学出版局、1996年。
アルノ・ボルスト『中世の異端カタリ派』藤代孝一訳、新泉社、1975年。
Actualté de l'Histoire mystérieuse, No.31, 1998-07, L'aventure Cathare.
L'ARCHEOTHEMA/2012-07・08. No.023/Les châteaux en pays Cathare.
BRUNEL-LOBRICHON & DUHAMEL-AMADO,
             Au temps des troubadours, XIIe-XIIIe siecles, Hachette, 1997.
DUVERNOY, Jean, Le Catharisme 1, La religion des Cathares, Éditions Privat, 1976.
DUVERNOY, Jean, Le Catharisme 2, L'Histoire des Cathares, Éditions Privat, 1979.
LANNOY, François de et LABROT, Jacques, La croisade albigeoise, Éditions Heimdal, 2002.
LEBÉDEL, Claude, Comprendre la tragédie des Cathares, Ouest-France, 2007.
NELLI, René, Dictionnaire du Catharisme et des hérésies méridionales, Éditions Privat, 1994.
NELLI, René, Les cathares du Languedoc au XIIIe siècle, Hachette, 1969.
POUX, Didier, Le pays cathare, Le Chatharisme, Éditions APA-POUX, 1995.
ROQUEBERT, Michel, La croisede contre les Albigeois, Éditions Loubatieres, 1987.
SERRUS, Georges, Pays Cathares, Éditions Loubatières, 1994.
VALLÊE-ROCHE, Le Languedoc-Roussillon des origines à nos jours, Ouest-France, 2012.

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質問等は、メールで送って下さい。
また小コメントや最終レポートも、やはりメールで送って下さい。
学番、学科名、氏名を忘れないように。
nakagawa@tokai-u.jp

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