オンライン授業/西ヨーロッパ地域研究B/ラングドック・ルシヨン地方の歴史と文化

カミザール戦争からスティーヴンソンのロバの旅まで           
 
(※ページの画像がうまく読み込まれない場合は、再読み込みすると、ちゃんと表示されると思います)
 


  
   
                  セヴェンヌの風景

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【年表】
1517年 ドイツにてルターが宗教改革を開始。
1562年 フランス宗教戦争始まる。
1572年 サン=バルテルミーの大虐殺。
     カトリックがユグノー(プロテスタント)を大量虐殺(8月24日)。
1598年 国王アンリ4世がナントの勅令を発し(4月13日)、宗教戦争終結。
1685年 国王ルイ14世、ナントの勅令を破棄し、再びユグノーを弾圧。
1702年 南仏セヴェンヌ地方で
カミザールの乱(~1715年)
1764年 
ジェヴォーダンの獣、現れる(~1767年頃)。
1878年 
スティーヴンソン、ロバとともにセヴェンヌを徒歩旅行(9~10月)
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①カミザール戦争(カミザールの乱)                    
今回は、ラングドックの北部にあたる「セヴェンヌ地方」、そしてロゼール県における
18世紀~19世紀の出来事を取り上げます。
「セヴェンヌ地方」(Cévennes)は、今のロゼール県からガール県にかけての地域を指します。
ここはフランス中央山地の南東端にあたり、比較的高い山地が連なるところです。


このセヴェンヌ地方は、18世紀初めに起こった
「カミザール戦争」
(またはカミザールの乱、セヴェンヌ戦争など)と呼ばれる
フランス・プロテスタント(ユグノー)の反乱の血なまぐさい舞台ともなったことで知られます。

そもそも西ヨーロッパでは、中世の間、正統な教会はローマ・カトリックだけでした。
しかしその教会のあまりの堕落と腐敗に対して、1517年からドイツでルターが
宗教改革を始めます。
いわゆる
「プロテスタント」の動きの始まりです。
プロテスタントは、それまでのカトリックのミサなどような
ゴテゴテした煩雑な儀式を排して、信徒がただ『聖書』のみをもって
信仰の中心的基盤とすべきであると主張します。
そしてまた教皇、司教、司祭といった権威主義的・権力的な聖職者のあり方を批判します。

プロテスタントはフランスにも拡大し、
「ユグノー」と呼ばれました。

この「ユグノー」と「カトリック」の間の激しい対立と、血で血を洗うような戦いが、
1562年から1598年までおよそ35年近くも続きます。
これを
「フランス宗教戦争」(Guerres de religion)と言います。

最も悲惨で有名な事件は、
1572年の「サン=バルテルミーの大虐殺」で、
カトリックがユグノー(プロテスタント)を、パリや地方で大量虐殺しました。


『サン=バルテルミーの大虐殺』(François Dubois)


この宗教戦争は1598年に、国王アンリ4世の
「ナントの勅令」によっていったん収まり、
この勅令によって、ユグノーはある程度の
信仰の自由を認められるようになります。

しかしその後、
ルイ14世が1685年に「フォンテーヌブローの勅令」を発して、
「ナントの勅令」を破棄し、再びユグノーを非合法化して弾圧を始めます。


こうした弾圧にもかかわらず、南フランスのセヴェンヌ地方には
ユグノー(プロテスタント)がまだ少なからず存続していました。
この時代の南仏セヴェンヌ地方のプロテスタントを
「カミザール」(Camisard)と呼びます。
彼らはカトリックの教会を使えなかったので(しかも非合法だったので)、
野原や山などで集まって集会を開き、そこで礼拝をしたり牧者の説教を聞いたりしました。


カミザールたちの集会(礼拝・説教)


このセヴェンヌに残っていたカミザール(プロテスタント)を弾圧し、
強制的にカトリックに改宗させる任務に就いていたのが、
その当時ラングドック総督のもとでセヴェンヌ地方の布教監督官として
日頃からプロテスタントに対して過酷な迫害を行っていた
シェイラ神父(François de Langlade du Chayla/Chaila)でした。
シェイラ神父


シェイラ神父の、カミザール(プロテスタント/ユグノー)に対する迫害は、
あまりに厳しいものであったため、
ついに1702年7月24日、不満が高じたカミザールたちは、神父が住んでいた
ル・ポン=ドゥ=モンヴェール(Le Pont-de-Montvert)の自宅を襲撃して、
彼を殺してしまいました。

 

この事件が引き金となって、カミザールの反乱が一気にセヴェンヌの地に広がっていきました。
まるで600年前の異端カタリ派とアルビジョワ十字軍の戦いのような、ラングドックの反乱です。
この反乱を
「カミザール戦争(La guerre des Camisards)」と呼びます。
反乱鎮圧のために派遣された圧倒的なフランス国王軍に対して、
カミザールたちは、反乱の首領であるカヴァリエのもと、セヴェンヌの山や谷に身を隠しながら、
もっぱらゲリラ戦を展開して対抗しました。
カミザールの総勢は8000~10,000人と言われています。

 
カミザールの首領カヴァリエ           抵抗するカミザールたち(映画『カミザール』1972年、フランス)


国王軍は、カミザールたちのゲリラ戦術に悩まされながらも、戦いを有利に進め、
最後は「信仰の自由」をちらつかせながら、抵抗を抑え込んでいきました。
結局「カミザール戦争」は1709年に収束しました。
ラングドックのプロテスタントは、その後も細々と存続します。
カミザールの乱を押しつぶした国王権力とカトリック教会は、
今度はその80年後に起こった
1789年のフランス革命によって、押しつぶされることになります。
現在、このセヴェンヌ地方には、プロテスタントが数多くいて、
あちこちに
プロテスタントの寺院(temple)が建っているのを目にすることができます。


②ジェヴォーダンの獣(La bête du Gévaudan)                
カミザール戦争が収束しておよそ60年がたった1764年のこと、
セヴェンヌ地方の少し北、今のロゼール県、当時の名前は
「ジェヴォーダン」地方で、
世にも恐ろしい出来事が起こります。



普通ではない大きさの獣・怪獣が突然現れるようになり、
村人・農民・羊飼いなどを次々に襲うようになったのです。
女や子供などを中心に、100人もの人間が犠牲になったとも言われています。

ジェヴォーダンは、なだらかな高原地帯が続く地形ですが、決して豊かな土地ではなく、
しばしば荒涼とした丘や山がどこまでも続くというような景観でした。

そんなジェヴォーダンでは、それまでもオオカミの被害はありましたが、
当時の記録によると、この獣は、大きさがオオカミよりもうんと大きく、
キバが鋭く、胸も大きく尾が長い。
そして全身が赤い毛で覆われ、背中に長くて黒い縞模様が見られたとのことです。

襲われた人は、頭を食いちぎられ、内臓を食われていたそうです。
最初の犠牲者は、1764年6月30日に、14歳の村の女の子が襲われました。
内臓が食われていました。

 

記録では、1767年までの間に、200回以上目撃され、90人(他の記録では120人以上)が
この獣によって殺されました。
1767年に地元の猟師であるジャン・シャストルによって退治されたと言われています。

この獣が正確には何であったのかは、今もって不明です。
オオカミ説、ハイエナ説から始まって、突然変異したオオカミ説、ライオン説、
はては狼男説までさまざまです。
またジャン・シャストルが退治したという話も、不確かなところが多くてよく分かりません。

 
Jean Claude Bourret 作成のジェヴォーダンの獣           ピエール・ペロー『ジェヴォーダンの獣』
                                 2001年にはフランスで映画化された。



③ロバート・ルイス・スティーヴンソンの徒歩旅行『旅はロバをつれて』   
ここまで取り上げてきたカミザール戦争の思い出と、ジェヴォーダンの獣の記憶をたどりつつ
ジェヴォーダン(ロゼール県)からセヴェンヌへと、
徒歩で旅をしたスコットランドの作家がいました。
時は1878年の秋、作家の名前は
ロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson, 1850-1894)と言います。
彼の名は
『宝島』(1883年)や『ジキル博士とハイド氏』(1886年)といった作品で知られています。
彼が徒歩旅行をしたのはまだ若い28歳の時でした。
そしてこの徒歩旅行は、なんと言っても、
一頭のメスのロバとともに行われたという点で
後世に知られるものとなりました。
彼は1879年に、この旅の様子をつづった旅行記
『旅はロバをつれて』(Travels with a Donkey in the Cévennes)を発表しました。


ロバート・ルイス・スティーヴンソン


彼の旅は、1878年9月22日にオーヴェルニュの
ル・モナスティエ=シュル=ガゼイユ(Le Monastier-sur-Gazeille)という村を出て、
10月4日にガール県のアレス(Alès)に着くという、
13日間の旅でした。

スティーヴンソンがロバとともに徒歩旅行をした1878年の時点では、
まだジェヴォーダン・セヴェンヌ地方の東部には鉄道は走っていません。
今のような整備された自動車道路もありません。

彼はロバとともに丘を越え、森を抜け、渓谷を渡り、山を越え、峠を越えて歩いて旅をしたのです。
しかも、そうした山や森の中でロバとともに、しばしば
野宿もしています。
まさしく自然のただ中を、自然とともに歩く旅でした。
しかもその自然はと言うと、標高1000メートルを超えるような高地が連続し、
あまり緑豊かとは言えないしばしば
荒涼とした過酷な山地です。
秋9月ともなると、すでに朝晩はかなり冷え込みます。

 
スティーヴンソンの旅の行程(赤い線)       ロゼール県(ジェヴォーダン)部分の拡大地図

上の右側の地図は、スティーヴンソンの旅の一泊ごとの行程です。
①は旅の1日目の宿泊地、②は2日目の宿泊地を表しています。
ル・モナスティエからアレスまで12泊13日です。

この行程すべてをここで詳しく追っていくことはできません。
ところどころだけ拾い上げることにしたいと思います。


◆9月22日(日)の朝、ル・モナスティエの街をロバとともに出発しました。
このメスのロバの名前は
「モデスティーヌ」(Modestine)といいました。
スティーヴンソンはこのロバを、ル・モナスティエに住むアダン老人から65フランと
ブランディ1杯で譲り受け、野宿用のスリーピング・バッグをはじめ、
衣類や食糧などの荷物を山のように載せて出発したのです。

ロバのモデスティーヌの歩みは、運ぶ荷物が多かったこともあって、
最初はノロノロとしたものでした。
スティーヴンソンは、ずり落ちそうになる荷物を支えながら、
モデスティーヌの尻をムチで、休みなく、かつ容赦なく打ち続けました。
山々や渓谷の谷に、スティーヴンソンのふるうムチの音だけが鳴り響いていたといいます。
それでもノロノロとしたスピードになるので、8分の1インチ程度の針の付いた「突き棒」で
ロバの尻を突きます。そうすると効果てきめん、スピードアップです。
でもロバのモデスティーヌにとっては、なんとも哀れで可哀想な話ですね。

(イメージ)


◆3日目(9月24日)、ランゴーニュの宿屋を出たスティーヴンソンとロバは、
夕方になって悪天候の中、メルコワールの荒涼とした土地を進むうち、
薄暗くなりかけた沼地で道に迷い、そして不思議な光景に出くわします。
10人くらいの子供たちと10頭くらいの牛と出会うのです。
「彼らは黙って輪を作って歩き回っていて、時には手をつなぎ合わせ、
時にはお辞儀をした後で何人かずつに切れて分かれた。[……]
日が暮れようとしている時の沼地でのそういう踊りは、見ていていかにも薄氣味悪かった。」
(『旅はロバをつれて』吉田健一訳、岩波文庫、39頁)

人里離れた薄暗い沼地で輪になって踊る子供たち。
なんとも不気味ですね。
この子供たちはいったいどこから現れたのでしょう?

実はメルコワールの森の中の
レ・ショワジネ(Les Choisinets)という場所に、
1859年に作られた大きな
孤児院(orphelinat)がありました。
スティーヴンソンが見たという、輪になって回る子供たちというのは、
実はこの孤児院の子供たちであったのかも知れません。
この孤児院はその後1904年と1926年に起きた大きな火災によって被害を受けて廃止されて、
今は廃墟だけが残っています。

19世紀後半は、今よりも、親は簡単に子供を捨てました。
あるいは子供を育てていくだけの経済力がなく、仕方なく捨てる親が多かったのです。
今は廃墟となったこの孤児院にいた子供たちの、
その後の人生は、いったいどんなだったのでしょうか?
孤児院の廃墟の壁に並んでいる空虚な窓が、なんとも悲しげです。
捨てられた子供たちはこの窓から外を見ながら何を思ったりしたのでしょうか?

 
                  レ・ショワジネの孤児院の廃墟(2013.8.12)


◆第7日(9月28日)、スティーヴンソンとロバのモデスティーヌは、
シャスラデスから標高1500メートル近いグウレ山(montagne du Goulet)を、
羊飼いの笛の音を聞きながら越え、ロゼール山北面までの行程をたどりました。
そしてマラヴィエイユ(Malavieille)から現在のロゼール山荘(Le Chalet du Mont Lozère)
にかけてのあたりの
松林の中で野宿しました。
旅行記には、銀河の星々を仰ぎ見ながらの、
誠に美しい一夜であったと書かれています。

「星は澄んだ光で輝き、色づいていて、宝石のようだったが、冷ややかな感じはしなかった。
微かな、銀色をした煙のように見えるのが銀河だった。[……]
私はぼんやりタバコを吸いながら、我々が空と呼ぶことにしている空間の広がりを眺めていた。[……]
私は自分自身というものに対する静謐な満足と、物質的な諸条件から無縁であることを、
この時ほど深く味わったことはない。」(『旅はロバをつれて』89頁。訳文一部改変。以下同じ)


旅行記『旅はロバをつれて』
表紙の絵はロバと野宿をするスティーヴンソン




◆第8日(9月29日)、スティーヴンソンとモデスティーヌは、
ロゼール山のフィニエル山頂(pic de Finiels)を越えて、「カミザール戦争の地」に入ります。
先ほども取り上げた
「ル・ポン=ドゥ=モンヴェール」で昼食をとっています。
彼の旅行記は、カミザール戦争と、この戦争の勃発の引き金となった
シェイラ神父殺害事件について
詳しく説明しています。

「カミザール信徒たちは、ひとりひとり進み出て、シェイラに短刀を突き刺した。
『これは車裂きの刑に処せられた私の父のために、これはガレー船送りにされた私の兄のために、
これは修道院に押し込められた私の母のために、また私の姉のために』
彼らはそれぞれシェイラを刺してその理由を述べた。
それからひざまずいて、シェイラの死骸を囲んで夜が明けるまで讃美歌を歌った。」
(『旅はロバをつれて』121頁)
まるでアガサ・クリスティのミステリーみたいですね(おっと、ネタバレかも)。
なおこの村には今は
「ロバート・ルイス・スティーヴンソンの道協会」
Association sur le chemin de Robert Louis Stevenson)が置かれています。


今は平和でのどかなル・ポン=ドゥ=モンヴェールの村(2013.8.16)


◆第12日(10月3日)スティーヴンソンは、
サン=ジャン=デュ=ガール(Saint-Jean-du-Gard)に着きます。
ここはもうロゼールではなく、ガール県北部の小さな街です。
12世紀にサン=ジルのベネディクト派修道士によって建てられた
サン=ジャン=バティスト教会の塔と、その土台部分に隣接する建物の壁の一部が残っています。
16世紀の宗教戦争の際に、国王軍がこの街で行った虐殺への復讐として、
プロテスタントによって1560年に破壊されました。
残された壁の石積みと大きなアーチから、
この教会が精巧に建てられた立派なものであったことが推し量られます。

サン=ジャン=バティスト教会の遺構(2014.3.9)


◆第13日目(10月4日)、ここまでの過酷な徒歩旅行でモデスティーヌはかなり弱っていたので、
ここから最終目的地のアレスまでは駅馬車に乗ることにし、
スティーヴンソンはサン=ジャン=デュ=ガールの街でロバのモデスティーヌを売り払いました。
ロバとの徒歩旅行はここで終わったのでした。
サン=ジャン=デュ=ガールからアレスに向かう駅馬車の中で、
スティーヴンソンは旅の友であったロバのモデスティーヌのことを思って、
他の乗客たちの目も気にせずに泣いたのでした。


◆1888年、スティーヴンソンは、38歳の時に
南太平洋の旅に出ます。
翌1889年にはその旅の際に気に入った
サモアに住むようになり、そこで執筆活動を続けました。
彼は呼吸器系の持病(恐らくは結核)を持っていたので、
南太平洋の温暖な気候が体にいいと考えたのかも知れません。
しかしそのサモアでの生活もスティーヴンソンの健康状態を完全なものとすることはなく、
1894年には脳溢血のため、ついにサモアで帰らぬ人となりました。
スティーヴンソン、44歳の時でした。

南太平洋の島は、彼にとって、さまざまな毒にまみれた
文明の病から逃れるための
自然に満ちた理想郷だったのかも知れません。
若い時にロバのモデスティーヌと一緒に旅し、そして満天の銀河のまたたく夜空の下で過ごした
ジェヴォーダンやセヴェンヌでの幸福な思い出と重なるものだったのかも知れません。



ロバート・ルイス・スティーヴンソンの道協会


なお、このロバート・スティーブンソンの道協会のWebサイトに、
スティーブンソンの旅した道を紹介した動画(4m45s)が Youtube にあります。
ナレーションはフランス語ですが、ロゼールやセヴェンヌの美しい自然の様子を
見ることができます(↓)。
https://www.youtube.com/watch?v=FAfPaWvnPuI




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【今回の授業の参考文献】

中川久嗣「ロバート・ルイス・スティーヴンソンの旅行記『旅はロバをつれて』と
          南仏ジェヴォーダン」『文明研究』第34号、2015年、東海大学文明学会。
中島俊郎『イギリス的風景 教養の旅から感性の旅へ』NTT出版、2007年。
よしだみどり『物語る人(トゥシターラ)―『宝島』の作者R・L・スティーヴンスンの生涯』
                                 毎日新聞社、1999年。
カヴァリエ『フランス・プロテスタントの反乱-カミザール戦争の記録』二宮フサ訳、
                               岩波書店、2012年。
アベル・シュヴァレイ『ジェヴォーダンの人食い狼の謎』高橋正男訳、東宣出版、2003年。
ロバート・ルイス・スティーヴンソン『旅は驢馬をつれて』吉田健一訳、岩波文庫、1951年。
ロバート・ルイス・スティーヴンソン『旅は驢馬をつれて』小沼丹訳、みすず書房、2004年。
ピエール・ペロー『ジェヴォーダンの獣』佐野晶訳、ソニーマガジンズ、2002年。
Jean-claude Bourret, La Bête du Gévaudan et autres histoires vraies, L'Archipel, 2016.
François Fabre, La Bête du Gévaudan, Éditions De Borée, 2001.
Pierric Guittaut, La dévoreuse : Le Gévaudan sous le signe de la Bête, 1764-1767,
                              Éditions De Borée, 2017.
Michel Louis, La Bête du Gévaudan, Perrin, 2003.
Abbé Pourcher, Histoire de la Bête du Gévaudan : Véritable fléau de Dieu,
                             Jeanne Laffitte, 2006.

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