オンライン授業

特殊講義D/フランス中世の教会建築と彫刻装飾
第2回/プレ・ロマネスクの世界(後半)

4.ポワチエのサン=ジャン洗礼堂(Baptistère St-jean de Poitiers)    
それでは話をフランスに戻しましょう。
先にも触れましたが、初期キリスト教時代、あるいはプレ・ロマネスク時代の建築物で
フランスに残っているものは、非常に少ないのです。
以下、その時代のもので、私が実際に訪れたところを大まかな時代順に紹介していきます。

建築物という形で残っているものは少ないのですが、
「洗礼堂」(Baptistère)の遺構という形で残っているものはいくつかあります。

「洗礼」とは、キリスト教において、正式な信者となるための儀式です。
新約聖書では、イエス・キリストがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受ける場面が出てきます。
洗礼は原罪とそれまでに犯した過ちを清める役割を担っています。
身を沈めた洗礼漕から出ることは、キリストとともに復活することをも意味しました。

全身を水の入った洗礼槽に浸かるものから、頭だけに水をかけるもの、
あるいは司祭が濡れた手を頭に押しつけるといった形のものがあります。
もともとは
洗礼槽(洗礼用の小さなプール)の中に全身を浸ける形がオーソドックスに行われていました。
下の写真の左側は、司祭が赤ん坊の全身を洗礼プールの中に浸けています。
右側は赤ん坊の頭に水をかけています。共に今の洗礼式の様子です(ネットから拾ってきました)。
 


さてまず最初に、フランスで最も古い「洗礼堂」として、ポワチエのサン=ジャン洗礼堂を取り上げます。
ポワチエ(ポワティエ/Poitiers)はフランス西部のヴィエンヌ県にある都市です。
世界史の教科書では「732年のトゥール・ポワチエの戦い」などで知られる場所です。
フランスに攻め込んできたイスラーム軍を、このあたりでカール・マルテル率いる
フランク王国軍が破った戦いですね。


ポワチエのサン=ジャン洗礼堂は、洗礼槽だけではなくて、
5世紀の洗礼堂の建物自体が残っているという、フランスでも珍しいものです。
フランスに現存するプレ・ロマネスクの教会建築として有名で、
メロヴィング期の、
現存する最古のキリスト教建築です。

 
             ポワチエのサン=ジャン洗礼堂(北東) 同(西ファサード)2009.8.25


建物は4世紀後半または5世紀初め頃のローマ時代の住居であったと思われます。
もとは3世紀頃のローマ時代の神殿であったとする見方もあるようです。
洗礼槽が造られたのは4世紀中のこととされています。
この時期のポワチエ司教は聖イレールと言われています。
洗礼堂はその後たび重なる改修の手が加えられてきました。
それにもかかわらず、当時の初期キリスト教時代の雰囲気がよく残されています。
あるいは古代の要素にメロヴィング朝時代の特徴が重ねられているとも言えます。
洗礼堂として使用されるようになると、ポワチエの司教座聖堂建築群の一部となりました。
サン=ジャン洗礼堂内部

 
                
   洗礼槽(洗礼プール)

カロリング時代初め頃(6~7世紀)に、方形の翼廊(トランセプト)および半円形の後陣などが増築され、
キリスト教の儀式のためにプランが整えられました。
その後、方形の翼廊は半円形の小後陣に造り替えられています。
11世紀、西側部分(現在の入口のある建物)が増築されました。
堂内には12世紀~13世紀のフレスコ画が描かれています。
また堂内にはメロヴィング朝時代の石棺などが置かれています。
フランス革命後の1791年に、国有財産として売却され、倉庫として使用されたりしましたが、
その後1834年、文化財保護のために取り壊しの危機から救われたのでした。


サン=ジャン洗礼堂の変遷。左から4世紀、6~7世紀、11世紀以降。

ポワチエのサン=ジャン洗礼堂の外壁には、7世紀に埋め込まれた彫刻装飾などが見られます。
外壁に埋め込まれたこれらの彫刻装飾は、初期キリスト教時代からプレ・ロマネスク時代にかけての
メロヴィング期の美学を表していると言われています。
この時代の彫刻装飾は、比較的単純で幾何学的とも言える
線刻模様や植物文様などが支配的です。

ポワチエ・サン=ジャン洗礼堂の外壁の彫刻装飾(2009.8.25)

 
同(拡大)


5.シミエ、フレジュス、エクスの洗礼堂(Baptistère)              
次に、南フランスに残る、5世紀~6世紀の古い洗礼堂の遺構を紹介します。
東から順に、シミエ(ニース)、フレジュス、ヴナスクです。



◆シミエ(Cimiez)                                  

シミエの丘は、今のニースの街の少し北にある古代ローマ時代の都市の遺構です。
ニースは今ではコート・ダジュールの高級リゾート観光地ですが、
2000年前はニカイア(Nikaia)と言い、ギリシア系マッサリア(今のマルセイユ)の植民都市でした。
紀元前154年、アンティポリス(今のアンティーブ)とニカイアを
原住民であるケルト系リグリア人の攻撃から守るためにローマがやって来ました。
その後、この地方がローマの支配下に入るに従ってシミエの丘に
セメネルム(Cemenelum)という街区が形成され、
最初は軍団司令官の管轄として、その後地方長官の支配下で発展しました。
最盛期はセヴェルス帝とその息子カラカラ帝の時代(AD193-217)です。
 
ニース、シミエの考古学地区(2005.3.13)           上空からの写真(Les Dossiers d'archéologie, no.323. p.67.)
北の浴場。左上の赤い建物はマチス美術館。手前は古代のプール。



現在、このシミエのローマ都市の遺構は、考古学発掘地区として一般公開されています。
シミエ考古学博物館も併設されています。
このシミエにはローマ時代の古代浴場が北・東・西の3つにあります。
 →「北の浴場」が作られたのは紀元3世紀初め頃。
 →「西の浴場」は紀元3世紀後半。

「西の浴場」が造られたのは、すでにヨーロッパ(ローマ帝国)が北方からの民族移動によって
危機の時代を迎えていた頃でした。
このあたりはその頃もまだ比較的平和だったということでしょうか。
しかし紀元4世紀後半、蛮族の到来とともに、3つの浴場はすべて使用されなくなります。
5世紀には街はますます荒廃し、その後6世紀頃にはシミエの街は放棄されました。

初期キリスト教時代の「洗礼堂」の遺構が残っているのは「西の浴場」です。
この浴場の排水溝からは女性のヘアピンやイヤリングが見つかっているので、女性用の浴場だったと思われます。
5世紀には教会に作り替えられた模様で、その時に「洗礼堂」も造られたと思われます。
現在残るのは「洗礼堂」の建物ではなく、「洗礼槽」(洗礼プール)の遺構です。


James Bromwich, The Roman Remains of Southern France, p.284.

 
               シミエの西の浴場に残る5世紀の洗礼槽の遺構(2005.3.13)


上の写真を見ると分かるように、洗礼槽は
六角形です。
薄いピンク色のコンクリートで作られています。
洗礼槽を囲む様にしてすぐ外側の6本の小円柱が洗礼堂の小天蓋(小ドーム)を支えていました。
柱の土台部分だけが3本残っています。
さらにその外側の8本の大理石製の円柱が丸天井を支え、
一番外側の四角いブロック積みの柱が洗礼堂の建物自体の屋根を支えていました。
右側の写真を見ると、洗礼を受ける者が
プールの中に下りていくための石段が見えます。


なお、このシミエ考古学地区のすぐ隣は「マチス美術館」です。
日本人観光客の多くはこの「マチス美術館」には行きますが、
隣にある古代ローマ時代のシミエ考古学地区には立ち寄ることなく、さっさと帰ってしまいます。
なんとももったいない話ですね。
皆さんは将来ニースに行くことがあったら、この授業のことを思い出して
2000年前のローマ遺跡もぜひ見学して下さいね。


◆フレジュス(Fréjus)                               
フレジュスも古代ローマ都市でしたが、何よりも軍港として栄えました。
古代名はフォールム・ユリイ(Forum Julii)と言い、
紀元前49年、カエサルがガリア征服戦争のあと、自分に敵対する元老院派の
マッサリア(現マルセイユ)を攻略した際に、フレジュスを拠点の港として使用しました。
オクタヴィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)は、フレジュスを海軍基地としました。
紀元前30年に、この街は第8軍団の退役兵の植民都市となています。
紀元1世紀には、ローマ都市として神殿や劇場、水道などのさまざまな公共建造物が建てられました。
ただし、フレジュスはローマ時代後期にはあまり重要な役割を果たさなくなりました。

フレジュスに残る古代ローマ水道の遺構(2008.8.11)


古代後半の374年には、最初の司教の記録があります。
司教座聖堂(司教の在位する聖堂。いわゆる「大聖堂」/カテドラル)は、
現在のフレジュスの旧市街の中心部にあります。
フレジュス大聖堂(2019.3.3)

 
フレジュス大聖堂(現地説明板)                洗礼堂部分の拡大図

この大聖堂自体は11世紀~12世紀のロマネスク時代のものですが(上の写真)、
その南西角に残されている「洗礼堂」は非常に古く、
4世紀終わり頃~5世紀前半頃の
初期キリスト教時代のものです。
メロヴィング朝の最初の頃に当たります。
フランスでも最も古い洗礼堂のひとつで、上で紹介した
ポワチエのものに次いで古いものとされています。
洗礼堂全体のクーポール(天井のドーム)は19世紀に建てられたものです。
出入口は大小2つあって、洗礼を受ける者は、小さい方の入り口から慎ましやかに入り、
洗礼後(つまり正式にキリスト教徒となった後)は、大きい方の出口から堂々と出たと言われています。
洗礼槽(洗礼プール)は
八角形です。
周囲の円柱は、ローマ時代の円形闘技場から移設されたものです。
 
フレジュスの洗礼堂(2019.3.3)                        洗礼槽(2008.8.11)

2019年3月3日にこのフレジュス大聖堂の洗礼堂を見学した時、
たまたまこの古代の洗礼堂で、
赤ちゃんの幼児洗礼の儀式をやっていました。
千数百年前の洗礼堂を今でもこうして使っているんですね。
歴史の重みと共に信者になるというわけです。
どうか元気で良い子になりますように。
幼児洗礼の様子(2019.3.3)


◆ヴナスク(Venasque)                              
ヴナスクのある、南仏プロヴァンスのヴォークリューズ県のこの地方は、
14世紀以来、
アヴィニヨンの教皇領となり、教皇庁がローマに戻った後も、
フランス革命まで教皇領であり続けました。
ヴナスク自体は、小山の上にあるごく小さな村です。
しかしこの村には、フランスで最も古い宗教建築のひとつである洗礼堂が残っています。
その洗礼堂は、村の北の端に建っている
ノートル=ダム教会(Église Notre-Dame)の中から入ります。
 
ヴナスクのノートル=ダム教会(2003.3.12)       Thorsten Droste, La France romane, p.116.


ヴナスクの洗礼堂(Baptistère de Venasque, 2003.3.12)、洗礼槽と西の祭室

この洗礼堂が造られたのは、
メロヴィング朝時代(6世紀)であると
推定されています(11世紀に改修されている)。
初期キリスト教時代あるいはプレ・ロマネスク期のものです。

内部は正方形で、その四方に半円形の祭室(小後陣/abside)が付けられていて、
まるで
四つ葉のクローバー形です。
中央の洗礼堂の床に、洗礼槽(プール)が残されています。
5世紀までは床面に掘られたこの水槽で全身浸水方式で洗礼を行いました。
5世紀以降は、その隣に置かれている石の立方水槽(キューブ)で幼児洗礼が行われました。
 
洗礼槽と南の祭室。石の立方水槽が置かれている。             5世紀の洗礼槽

床面の洗礼水槽が身廊の中央位置からズレているのは、ローマ時代の給水路を利用したからです。
床面の洗礼水槽は
八角形です。フレジュスと同じです。
四つ葉のクローバーのように造られた4つの祭室(小後陣)は、
世界の「四方」および十字架を表しているとされます。

半円形の小後陣に並ぶ
円柱の柱頭は、古代様式あるいはメロヴィング朝様式です。
下の写真の一番左は、古代ローマ風のコリント様式による
アカンサスの葉飾りです。
メロヴィング朝様式(右の2枚)は、
図形的な線刻による植物文様
中央に置かれた
丸い渦巻き状の花弁などが特徴です。
小円柱の上に架かる小アーチのアーケードは11世紀に作られたものです。
小後陣はそれぞれ6本の柱が5つのアーチを支えている。
これは人間の「五感」を表すとも言われています。
  
                    ヴナスク洗礼堂の小円柱(2008.8.18)


6.ジェルミニー=デ=プレ小礼拝堂(Oratoire de Germigny-des-Prés)       

ジェルミニー=デ=プレは、フランス中央部のサントル・ヴァル・ドゥ・ロワール地方にある
ロワール川沿いの小さな村です。オルレアンの東およそ28キロです。
しかしこの村にも、非常に古いプレ・ロマネスクの小礼拝堂があります。


この小礼拝堂は、西ゴート・スペイン出身で
カロリング朝フランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)の側近かつ友人でもあった
オルレアン司教(兼サン=ブノワ=シュルロワール修道院長)の
テオドュルフ(Théodulf)が、
自分の所領に建てた
個人礼拝堂(オラトワール)でした。
完成したのは806年です(820年という見方もある)。
 
ジェルミニー=デ=プレの小礼拝堂(2009.8.26)       平面図。太い黒線がもともとのプラン。

上の平面図にあるように、もともとは
正方形の平面の中に4本の角柱が立ち、
正方形の4辺にそれぞれ半円形の小祭室(アプス)が付く、
四つ葉のクローバー形をしていました。
スペインの西ゴートの建築様式や、あるいはアルメニアの聖堂建築との結びつきが指摘されています。
現在は西の祭室と壁面が取り払われて、15~16世紀および19世紀に東西に長い身廊が増築されました。

したがって最も古い9世紀初めの、プレ・ロマネスク時代(カロリング期)の部分は東側の後陣部分で、
しかもこの東側の後陣の上に架かる天井の半ドームに
当時のモザイクが残されています(右上の平面図で赤い矢印で示したところ)。
フランスに残る唯一のビザンチン式(東ローマ式)モザイクで、
アルプス以北のヨーロッパに現存する最古のモザイク画であるとも言われます。
長い間、漆喰に覆われていたものが、1840年にその漆喰の下から発見されました。
多少修復保存の手が加えられています。

神の教えに従って旧約の律法を記した板を納めるためにモーゼが作らせた
「契約の箱」を主題としています。
「契約の箱(櫃)」とは、『旧約聖書』に記されている、十戒が刻まれた石板を収めた箱のことです。
この「契約の箱」を二人の智天使(ケルビム)が戴き、二人の大天使がさらにそれを取り囲み、
彼らの間に
神の手が伸びています。
神は直接その顔や姿を表現することが出来なかったので、
しばしば天から伸びる「手」という形で描かれました。
また大天使たちの
金と銀のモザイクの使用は、最初に見たラヴェンナのビザンチン芸術との
関連を示すものとも言われます。
その古さといい、美しさといい、フランスのプレ・ロマネスク芸術の中でも
ひときわ素晴らしいものと言われています。
 
東側小後陣の半ドームとモザイク画(2009.8.26)

 
大天使(上)と智天使(下)。中央に神の手           旧約聖書の「契約の箱」



------------------------------
※今回はここまでです。
次回は10月13日(火)の朝に、第3回目の授業内容をアップロードします。
http://languedoc.nn-provence.com/
にアクセスして下さい。
------------------------------


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【今回の授業の参考文献】
エリック・カンパーノ『アーヘン大聖堂』2002年。
ジョン・ラウデン『岩波世界の美術/初期キリスト教美術・ビザンティン美術』
                        益田朋幸訳、岩波書店、2000年。
饗庭孝男『ヨーロッパ古寺巡礼』新潮社、1996年。
饗庭孝男『世界歴史の旅/フランス・ロマネスク』山川出版社、1999年。
越宏一『ヨーロッパ中世美術講義』岩波書店、2001年。
越宏一『ヨーロッパ中世美術史講義・中世彫刻の世界』岩波書店、2009年。
櫻井義夫・堀内広治『フランスのロマネスク教会』鹿島出版会、2001年。
前川道郎『聖なる空間をめぐる フランス中世の聖堂』学芸出版社、1998年。
柳宗玄『柳宗玄著作選3・初期ヨーロッパ美術』八坂書房、2010年。
James Bromwich, The Roman Remains of Southern France: A Guide Book,
                               Routledge, 1993.
Thorsten Droste, La France romane, Les Éditions Arthaud, 1990.
Jean Hiernard, et al., Le Baptistère saint-Jean de Poitiers,
                    Société des Antiquaires de l'Ouest, 2004.
Les Dossiers d'Archéologie, No.323, 2007, Les Thermes en Gaule Romaine.
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

特殊講義DのTOPページに戻る






中川研究室ホームページ/TOPページへ