オンライン授業/西ヨーロッパ地域研究A「ラングドック・ルシヨンの歴史と文化」
第2回/5月19日(火)/ケルト時代のラングドックとローマの進出(前半)
(※ページの画像がうまく読み込まれない場合は、再読み込みすると、ちゃんと表示されると思います)
①ケルト文化
「ケルト」という言葉は、皆さんどこかで聞いたことはあると思います。
ケルトは、紀元前2世紀後半頃から古代ローマが進出して来る以前の
ヨーロッパに住んでいた、古い土着の民族のことです。
考古学的には次の2つの文化(時期)に分けられます。
「ハルシュタット文化」(最盛期は、およそ紀元前800年頃~紀元前400年頃の時代)
「ラ・テーヌ文化」(最盛期は、およそ紀元前400年頃~紀元前50年頃の時代)
「ハルシュタット文化」は、19世紀の中頃、
オーストリアのザルツブルク近郊のハルシュタットという場所で
17年間で980の墓(遺体)と2万点近い出土物が見つかったことからこの名前がつけられました。
青銅器時代から鉄器時代にかけての文化で、
墓からは器、剣、装身具などの金属工芸品が発見されました。
部族の支配者たちは、丘の上に砦を築いて住んでいました。
北はバルト海、南は地中海との交易があり、
この文化はもっぱら中央ヨーロッパがその分布範囲とされます。

(ハルシュタットで発見された墳墓の数々・スケッチ)
フランスでは、フランス中部のブルゴーニュ地方のラソワ山のふもとで1953年に見つかった
「ヴィクス(Vix)の王女の墓」が有名です。
これは紀元前6世紀(前520-515年頃)のもので、豪華な装身具を付けた身分の高い女性の遺体が
4輪の戦車に乗せられた形で埋葬されていました。
そしてその同じ墓には、銅製の高さ1.64メートル、重さ208キロの
「クラテル」(Cratère de Vix/vase de Vix)と呼ばれる巨大な甕(かめ)が置かれていました。
紀元前6世紀に今の南イタリアあたりで製作されたもので、最大1100リットルの
ワインが入りました。南イタリアからこのような巨大なクラテルを手に入れて使っていたことから、
このヴィクスに埋葬された女性の一族の身分の高さや政治的・経済的な力の大きさを
うかがい知ることができます。

(Vixのクラテル。シャティヨン=シュル=セーヌ考古学博物館。
横に立つ女性とほぼ同じくらいの高さがあります。)
ケルトの「ラ・テーヌ文化」は、
1856年、スイス・ヌーシャテル湖東北岸のラ・テーヌと呼ばれる場所の
水中からこの時期の遺跡が発見されたことから名付けられました。
発掘された墳墓は、王族の戦車墓(2輪戦車)などがあり、
来世を意識した副葬品も見つかっています。
そしてこの「ラ・テーヌ期」の工芸品・装飾品は、
なんと言っても、曲線を中心とした渦巻き・装飾文様が特徴的なことが知られています。
フラゴン(ワイン注ぎ)、ブレスレット(腕輪)、トルク(首輪)、
フィブラ(ブローチ)、アンクレット(足首飾り)などにそれが見られます。

腕輪/仏タルン/BC3世紀/『図録ケルト美術展』 イングランドで見つかったラ・テーヌ期の金製の盾
②南仏ラングドックのケルト文化/ナージュの鉄器遺跡
今のフランスに相当する地域は、古代ローマ時代までは「ガリア」と呼ばれていました。
この「ガリア」の地が「フランス」と呼ばれるようになるのは、
まだまだ先の、中世の半ば10世紀頃からの話です。
この「ガリア」に住んでいたのは、広い意味でのケルト人であるガリア人の諸部族でした。
次の画像は、ラングドック地域で見つかった、
紀元前7世紀~6世紀頃のケルト人の男性の胸像です。

ニームの古代ローマ博物館(Musée de la romanité de Nîmes)
その後、紀元前3世紀頃に南仏ラングドック地方に住んでいたのは、
中央ヨーロッパ方面から移動してきた「ヴォルク=アレコミク族」(Volques Arécomiques)
と呼ばれるケルト系ガリア人たちでした。
ラテン語では「ウォルカエ・アレコミキ族」(Volcae Arecomici)と読みます。
おなじヴォルク(ウォルカエ)族でも、ラングドックのさらに西部、
今のトゥールーズあたりに定着したのはヴォルク=テクトザージュ族でした。
この授業で扱う地中海沿岸地域のラングドック地方、とりわけ今のニーム周辺地域に定着した
ヴォルク=アレコミク族は、ラングドック各地において、小山や小丘の上に
オッピドゥム(Oppidum)と呼ばれる要塞集落・要塞都市を築いて住んでいました。
紀元前3世紀のケルト人のオッピドゥムの中でもよく知られているものが
ナージュ(Nages)のオッピドゥムです。
場所は下の地図の通り。
ラングドック地方の少し北寄りで、ガール県のニームの約15キロ西にあたります。
現在のナージュ=エ=ソロルグの村の北の小山の上に遺跡があります。

ケルト系ガリア人の要塞都市なので、標高約160メートルの小山の上にあります。
遠くから見ると、そんなに高い山ではなく、小山あるいは小丘ですね。

このナージュにあって特徴的なのは、オッピドゥム全体を取り囲むようにして
築かれていた城壁の存在です。
ヴォルク=アレコミク族が定住するようになった紀元前3世紀(紀元前200年代)から
紀元前150年頃までの間に、次々と4つの城壁が築かれていきました。
そのうち最も時代の古いものは、現在でもはっきりとその土台部分が残されている
非常に強固な城壁です。
グーグル・アースのサテライト・マップを見ても、はっきりとそれが分かります。
赤い線で示した部分です。

防御的な役割をかなり大きく果たしていた城壁です。
壁の外側には、一定間隔で外側に張り出した塔が造られています。
そのうち最も大きくてがっしりしたものは、
上の画像の赤い線の北西(左上)の角にあるものです。
直径はなんと11メートルもあります。
下の画像の左は、その北西角の塔の部分の現在の様子です。
右側は、ニームの古代ローマ博物館(Musée de la romanité de Nîmes)
に展示されている紀元前3世紀の様子を復元したものです。

上のグーグル・アースのサテライト画像の、赤い線で示した紀元前3世紀の城壁の
内側(右側)には、幅5mの小住居群が並んでいます。
通りは平行しています。
小さな同じ形の家が並んでいたことがはっきりと分かります。
このように、幾何学的な住居が並ぶ形は、
多かれ少なかれ、その時代のギリシア・ローマ文明の影響を感じさせます。
実際、地理的にもギリシア・ローマの植民都市であったマッサリア(今のマルセイユ)に
近かったということもあると考えられます。
次の画像(左)は、当時の城壁内の住居の様子です(ニームの古代ローマ博物館)。

各住居には、それぞれ「カマド」があったようです。
そのカマドで料理とかをしていたことでしょう。
今から二千数百年も前に、この丘の上の四角くて狭い住居に、
両親や子供たちからなる家族が、肩を寄せ合って住んで、
夜には、さぁ家族みんなで夕飯食べようか、みたいな日常生活だったのでしょうか。
実際には、いったいどんな家族の日々の光景だったのか、
そういったことを想像してみるのは、なかなか楽しいものです。
しかし、その一方で、強固な防御壁を築かなければならないほど、
日常的に外敵の脅威もあったと思われます。
なかなか厳しい日々だったのかも知れません。
| →第2回の後半に続く |