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ヨーロッパ・アメリカ文明特殊講義D/ヨーロッパ文明特殊講義D

第7回/クリュニー修道院とその発展            

中世ロマネスクは、よく
「修道院の芸術」と言われたりします。
都市で生まれて発展した後の時代のゴシック(12世紀後半~)に対して、
ロマネスク(10世紀~12世紀)は、自然に囲まれた農村や山間部に立てられた
修道院で育まれた文化・芸術でした(以下、少し長いですが、修道院の説明をします)。

1.修道院とは                                  
そもそも「修道院」とは何でしょうか?
簡単に定義すると、「修道院」とは、キリスト教の修道士や修道女が、世俗の生活を離れて、
修道院長のもと、一定の戒律に基づき清貧、貞潔、服従の誓願を立てて、
祈りと労働のために禁欲的な共同生活を営む場所、またはその組織のことです。

修道士たち(イメージ)


「世俗を離れて」というのは、「一般人としての普通の日常生活から離れて」ということです。
もっと具体的に言うと、家族を捨てて、友人を捨てて、一般の仕事や職場を捨てて、
さらには自分が持っている財産や所有物を放棄して、カラダひとつで「修道院」という組織に入り、
そこでただひたすら神への祈りと修行に身を捧げて一生を過ごすということです。
日本で言うと、俗世を捨てて寺に入って僧侶として修行を続けながら一生を過ごす、みたいな感じです。

自分たちが食べていき(そして修道院を維持・運営する)ための収入は必要なので、
そのための労働などはありますが、
それ以外には、一般人が楽しむような娯楽もなければ楽しみもありません。
修道会にもよりますが、基本は修道院の外に出るということもあまりありません。
修行の合間に、修道院の外に出て飲み会やろうぜ、なんてことはないのです。
どこかに遊びに行ったり旅行したりなどということもありません。
修道院長のもとで、規則に服従する生活です。
「自由」というものはありません。
恋愛などは御法度です。もちろん
生涯独身です。
男子修道院も女子修道院も同じです。

修道院の中でさえ、他の修道士との会話を禁止している修道会もあります。
そうなると、ただひたすら沈黙と祈りの日々です。
毎日毎日、ミサ(儀式)が早朝から、しかも一日に何度もあり、祈りや勉強を続けます。
とにかく「禁欲第一」に貫かれた「祈りと労働」の生活が、死ぬまで続きます。
これは中世の時代も、現代も同じです。
例えば日本にも修道院が数多くあります。
下の写真は、そのうちのひとつ、北海道にあるカトリックの「トラピスト修道院」です。
そこでの修道士たちの生活は「禁欲第一」に貫かれた「祈りと労働」です。

トラピスト修道院(北海道・北斗市)

なので「修道院に入る」というのは、まるで「刑務所に入る」とか「人生を捨てる」
みたいなニュアンスで受け取られることもしばしばでした。
「修道院に入る」イコール「人生の終わり」といった感じでしょうか。

しかし本当に信仰を持つ者にとっては、
俗世の仕事や雑事、わずらわしい人間関係、さまざまな社会のストレス、
失業や飢えの心配などから解き放たれて、何の不安や心配もなく、
ひたすら神への祈りに身を捧げることが出来る生活です。
これはとてつもなく、これ以上はないくらいの、「幸福」な生活なのだとも言えます。
ただし、厳しい規則のもとでの禁欲に貫かれた毎日です。
揺るぎなき信仰心と強い意志がなければ、続かない生活であるとも言えます。

以下に簡単な修道院の歴史事項を挙げておきます。

 【西ヨーロッパの修道院略史】

200年代 エジプトの砂漠で孤独な生活をする隠遁者たちが現れる。
300年代 ガリア(今のフランス)でマルティヌス(トゥールの聖マルタン)が修道生活を始める。
529年   ヌルシアのベネディクトゥス、「戒律(会則)」を定めて、
          イタリアにモンテ・カッシーノ修道院を創設(ベネディクト修道会のはじめ)。
910年  クリュニー修道院創建(フランス・ブルゴーニュ)。
1098年  シトー修道院創建(フランス・ブルゴーニュ)。
1209年 アッシジのフランチェスコが、フランチェスコ(フランシスコ)修道会創設。
          1223年、正式認可。
1216年 ドミニクス、ドミニコ会を創設。
1534年 イグナティウス・デ・ロヨラ、ザビエルなどが、イエズス会創設。1540年、正式認可。
1517年~ 宗教改革により、プロテスタント諸国では修道院が廃止される。
1789年~ フランス革命以降、修道院は廃止され、国有財産として売却。
     その後19世紀になって再建が進む。


この中で、特に重要なのが、529年にモンテ・カッシーノ修道院を創建した
ヌルシアの
ベネディクトゥス(480年頃-547年)です。
彼の定めた
「ベネディクトゥスの戒律」は有名で、
西欧各地でこの戒律を採用する修道院が数多くありました。
そのため彼は「西方教会における修道制度の創設者」であるとか
「西欧修道士の父」などと呼ばれています。
 
ヌルシアのベネディクトゥス




2.修道院の腐敗・堕落                               
修道院には土地や財産が付属しています。
修道士も食べていかなくてはなりません。
自分たち自身で、あるいは農民(小作人)に土地を耕作させて農作物を育てたり、
ブドウ畑を所有してワインを生産したりします。
修道院を創建したり維持・運営したりするためには土地が必要です。
そうした土地の獲得は、たいていその地方の支配者たち(領主たち)から
寄進(寄付)されることで始まります。

その土地の支配者たち(領主たち)は、
自分たち一族の贖罪(罪滅ぼし)や将来の繁栄を願って、土地を寄進して修道院を創建したり、
すでにある修道院に
土地や財産を寄進(寄付)して、
自分たちの代わりにお祈りをしてもらったりします。
また、例えば長男は自分の一族の本家を継いでいきますが、
次男や三男などは、修道士として修道院に入れたりします。
そして一族の贖罪と繁栄を祈らせるのです。
そうした「効果」があったり、聖人の「聖遺物」などを手に入れた修道院は人気を集め、
ますます有力者からの土地や財産の寄進が行われます。
聖人の「聖遺物」を拝む巡礼たちが集まるようになると、さらにお金が集まります。
こうして修道院は、有力な修道院になればなるほど、
土地や財産、そしてそこで働く農民などをたくさん所有して
「封建領主」化することになります。


さて、こうして土地や財産をたくさん持つようになると、
本来は「清く、正しく、慎ましく」であったはずの修道院も(そして教会も)、
次第に初心を忘れて欲望にとらわれ、腐敗と堕落が始まります。
悲しく残念なことです。

こうして9世紀(800年代)~10世紀(900年代)、あるいは11世紀(1000年代)前半くらいまで、
教会や修道院の堕落・腐敗が進行するという状況が続きました。

これは皇帝や国王、そして各地の有力な封建領主たちが、
勝手気ままに自分たちの親族や関係者、意のままになる人間たちを、
各地の教会の司教や司祭、あるいは修道院長に任命するということを続けていたこともありました。
本当だったらちゃんと教義の勉強をし、厳しい修行をし、清貧と深い信仰心、そして心の立派な人物が
教会(具体的にはローマ教皇)から認められて、
司教や司祭の聖なる「資格」を与えられなくてはなりません。
これを
「叙品」とか「叙階」と言います。

ところが先ほども説明したように、教会や修道院には土地と財産が付属しています。
司祭になると、自分が管理する教会の信者から徴収する
十分の一税(いわば信者納付金)、
さまざまな儀式を行うことで受け取る報酬、教会の所有する土地、そこからの収益、
そして
聖職録(聖職者に支払われる手当て・給料)などが懐に入ってきます。
司祭といえども人間なので、食べていかなくてはなりません。お金が必要です。
そして教会や礼拝堂の維持・管理・修理などにもお金がかかります。
そうしたお金を司祭は受け取ります。
大きな都市や大きな管轄区を管理する上級管理職(高位聖職者)である「司教」になると、
そうした収益の額も、単なる田舎の司祭なんかよりは桁外れなほど高額になります。
領主や貴族たちからの寄付の額も大きいです。

しかも司祭や司教たちは、信者たち(農民から貴族まで)の魂を導き、そして心を支配します。
その地の封建領主、貴族たちの政治に加わったりします。
こうして中世の社会では、キリスト教会の司祭や司教、そして修道院長は、
政治権力や経済力をがっちり握ることになったわけです。
司祭や司教は、非常に「うまみ」のある身分だったわけです。
修道院も土地財産を持っているので、修道院長もまた「うまみ」のある職でした。

修道士のイメージ:映画『薔薇の名前』(1986年、仏・伊・西独)


さて「力」を持つ者は、必ずと言っていいほど「腐敗」します。
悲しいことに、これはいつの時代もどこの場所でも、どんな人間でも同じですね。

9世紀~10世紀、キリスト教の司祭や司教も堕落し、腐敗したのです。
信者に対する説教やミサなんてそっちのけで、女を囲い、金儲けにうつつを抜かし、
豪勢な食事をし、酔っ払って堕落したわけです。
知識がなくて説教やミサもロクにあげられなかった司祭も少なくありませんでした。

こうした状況の最大の原因は、先にも述べたように、
皇帝や国王、そして各地の有力な封建領主たちが、勝手気ままに自分たちの親族や関係者、
意のままになる人間たち、お気に入りの者たちを、各地の教会の司教や司祭、修道院長に任命する
ということを続けていたからです。
繰り返しですが、司教や司祭や修道院長には「うまみ」があるのです。
皇帝や国王や領主たちは、自分の親族やお気に入りを、
そうした「うまみ」の大きな地位に就けたわけです。
これを西洋史の専門用語で
「俗人叙任」と言ったりします。
本来は聖職者のトップであるローマ教皇が、
資格のある立派な人物を司祭や司教や修道院長に任命すべきところ、
聖職者ではない「俗人」である皇帝や国王や領主たちが、
自分たちの意のままになる(そしてしばしば自分の親族の者を)、
司祭や司教や修道院長を任命したのです。
多くの場合、そうした司祭や司教や修道院長は「うまみ」のためにその地位に就いたのです。
また司祭や司教や修道院長の職を、カネで売り買いしたりすることも行われました(
聖職売買)。

3.クリュニー修道会(Ordre de Cluny/Ordre clunisien )              
以上のような修道院の腐敗・堕落に対して、
初心に戻って本来の修道生活の実現を掲げ、修道院改革に乗り出した修道会があります。
910年(または909年)、アキテーヌ公・マコン伯ギヨーム1世によって
彼の所領ブルゴーニュのクリュニーの領地内に創建された
クリュニー修道院(またはクリュニー修道会/Abbaye de Cluny)です。
   
                              
アキテーヌ公・マコン伯ギヨーム1世



現在のクリュニー修道院(2009.3.20)。手前の建物は近代になってからのもの。



クリュニー修道会は、ベネディクト会の「戒律」(聖ベネディクトゥスの会則)を導入し、
つまり
ベネディクト派としてその戒律を厳格に守り、世俗の政治権力などからも独立して、
ローマ教皇直属の組織として改革を進めました。
そして、あらためて「清く、正しく、慎ましく」という原点に戻ろうとしたのです。
初期の院長は以下の通りです。

 
初代院長  ベルノー(ベルノン、Bernon/在任:909~926)
第2代院長 オドン(Odon de Cluny/在任:926~942 )
第3代院長 エマール(Aimar de Cluny/在任:942~954)
第4代院長 マユール(Mayeul de Cluny、マイユール、マイヨール/在任:954~994)
第5代院長 オディロン(Odilon de Cluny/在任:994~1048)
第6代院長 ユーグ(Hugues de Semur/在任:1049~1109)


初代修道院長ベルノー(ベルノン)以下、歴代の優れた修道院長のもとで、
修道院改革に空前の成功を収めました。
聖職売買(シモニア)や司祭の結婚(ニコライティズム)などの腐敗に反対し、
聖ベネディクトゥス戒律(会則)の厳格な遵守によって、修道院活動を純化し、
汚れない本来の姿に戻ろうとしました。貧民救済をも目指しました。
これをいわゆる
「クリュニー改革」と呼びます。
この改革は、キリスト教会全体の改革を目指した
ローマ教皇グレゴリウス7世(在位1073~1085年)による
いわゆる
「グレゴリウス改革」にも大きな影響を与えたと言われたりします。


こうしたクリュニー修道会の活動は、不安な時代に農民のみならず上層階級の支持を受けました。
諸侯・領主などから、次々と土地の寄進を受けて、クリュニーは拡大・繁栄を続けます。
11世紀以降は、ヨーロッパ各地に傘下の修道院を次々と建設し、
分院体制に基づく中央集権的組織を発達させました。
12世紀中期に最盛期を迎えた時には、
東は聖地イェルサレムから、西はスコットランドまで、
ほとんど全ヨーロッパに約1500の分院を有するほどになり、
修道士も2万人を数えるほどに巨大化しました。
また各地の教区管理者である司教の権力をも排除しうる教皇直属の修道会として、
その勢力を強化しました。

さらに、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路を
整備したことでも知られています。

  
クリュニーの修道士たち(WEBから)           クリュニー修道会の分布図(12世紀/webから)




4.クリュニー修道院の建築                           
さて、こうした改革を目指したクリュニー修道会でしたが、
第2代院長オドー Odo(878頃‐942)の頃からミサなどの典礼(儀式)を重視し、
しかもその典礼はどんどんと豪華で壮麗になっていきました。

クリュニーは、「清く、正しく、慎ましく」という原点に立ち戻る改革を推進したにもかかわらず、
いつの間にか、
豪華で贅沢な道を再び歩むことになってしまったのです。

儀式が壮麗なだけではありません。
それを行なう
聖堂も巨大化していきます。

クリュニー修道院の建物は、大きく3つの時期のものに区別されます。

◆クリュニー第1聖堂は、最初のクリュニー修道院付属聖堂で927年献堂。詳細は不明です。

◆クリュニー第2聖堂は、第4代院長マユール(マイヨルス/在任954-994)の下に建てられました。
 建設は963年から981年(献堂)。
主祭室と両側の小祭室が段階的に並ぶいわゆるベネディクト式プランを特色とし、
 その形式は修道院改革運動の進展と共に各地の修道院に影響を与えました。

クリュニー第3聖堂は、1088年に第6代院長ユーグ(フーゴー/在任1049-1109)により
建設開始されました。
完成したのは、2代後のペトルス・ウェネラビリス(在任1122-56)のことで1130年頃完成しました。
この「クリュニー第3聖堂」がロマネスク修道院建築の中でもひときわ有名なものです。
「中世のもっとも完ぺきな建築」であるとされます。
後の時代のゴシック大聖堂に匹敵する規模(長さ約182m、高さ40m)を持ち、
当時のヨーロッパ最大の聖堂でした。
放射状祭室付周廊と二重翼廊の小祭室など合わせて15の礼拝堂を持ちます。
広大な身廊はおのおの直接採光される二重側廊を持ち、尖頭形トンネル・ヴォールトが載ります。
タンパンや柱頭は豊かに彫刻が施され、祭室は華麗な壁画で彩られました。
  
クリュニー第3聖堂における                    クリュニー第3聖堂
教皇ウルバヌス2世による主祭壇の聖別。1095年。          (杉崎泰一郎『12世紀の修道院と社会』)
(Les Dossiers d''Archéologie, No.269.)

このロマネスク建築の中でも極めつきに大きくて見事な修道院教会は、
しかしながらフランス革命による被害をまともに受けることになります。
革命政府は、フランス国内の教会や修道院を
国有財産として売却しました。
クリュニー修道院もフランス革命期に解体され、石材が売却
されました(1798-1819)。
今日では、残念ながら大翼廊南袖廊と内陣柱頭彫刻などを残すのみです。


上の写真の、太い赤線で囲った部分が、クリュニー修道院の敷地です。
細い赤線が、かつてのクリュニー第3聖堂にあたります
(グーグルアースから作成)


クリュニー第3聖堂復元図です。青い部分は失われ、わずかに黄色い部分のみが残るのみです。
(Dossiers d'Archéologie, HS-No.19, 2010-08.)

  
               
クリュニー第3聖堂内部の復元図(WEBから)

今現在、クリュニー修道院を訪れると、かつての大きな主身廊は、
それを支えていたピア(束ね柱)の土台と側壁の一部が残るだけの無残な空間が広がっています(↓)。
 


かろうじて取り壊しを逃れたトランセプト南翼廊と塔が残っています(↓)。
南側の翼廊部だけでこの高さと大きさなので、第3聖堂全体がとてつもなく大きな規模であったことが
想像できます。
頭部が半円形のアーチとなった大きめの窓が並び、堂内を明るく照らしています。
八角形のクーポールの上に、八角形の鐘塔が立ち上がっています。
こうした鐘塔が、西ファサード費およびトランセプトと内陣の上に、合計6つあったとされています。
  
トランセプト南翼廊と塔(2009.3.20)


クリュニー修道院には、ロマネスク期の見事な
柱頭彫刻もありました。
多くが失われてしまいましたが、その一部は現在でも隣接する博物館に展示されています。
アーモンド形のマンドーラ(光の輪)の中に、さまざまな人物がいます。
下の写真の一番右側は、
「プサルテリウムを弾く男」として有名なものです(↓)。
「プサルテリウム」とはハープに似た小型の弦楽器で、指ではじいて演奏するものです。
男は髭をたくわえ、目はくっきりと深く刻まれマントを着て、靴下と先の尖った靴を履いています。

  
           クリュニー修道院の柱頭彫刻             「プサルテリウムを弾く男」(2009.3.20)



5.パレ=ル=モニアル/サクレ=クール・バジリカ聖堂(Basilique de Paray-le-Monial)
クリュニーから約40キロ西にある
パレ=ル=モニアルのサクレ=クール・バジリカ教会(またはノートル=ダム修道院教会)は、
1100年頃にクリュニー修道院第3聖堂をモデルとして建てられました。
クリュニー修道院の第6代院長である聖ユーグもその建設に関わったとも言われています。
なので、このパレ=ル=モニアルは、今はそのほとんどが消滅したクリュニー第3聖堂を
縮小した
ミニチア型と言われたり、レプリカと言われたりします。

したがって、このパレ=ル=モニアルを見て、逆に、
かつてのクリュニー修道院第3聖堂の姿を、ある程度想像することができるのです。
後陣には放射状祭室が並んでいます。
祭室や壁が何段にも重なっていて、非常に安定した印象を、見るものに与えます。
 
パレ=ル=モニアルのサクレ=クール・バジリカ教会・後陣(2009.3.18)


内部の立面プラン(↓)は、一番下の第一層の大アーケードが非常に高くなっています。
その上に、トリフォリウムと高窓が来ます。
大アーケードと天井のヴォールトは、尖頭アーチになっています。
クリュニー第3聖堂よりも、身廊部の東西の長さが短くなっています。
西ファサードには、ナルテクス(玄関間)の上に2つの塔が立ちます。
トランセプト交差部の上に立つ八角形の塔の大きさに比べると、少し不自然に小さめとなっています。
  
パレ=ル=モニアルのサクレ=クール・バジリカ教会・内部および西ファサード(2009.3.18)


さて、先ほども触れたように、最初は「清く、正しく、慎ましく」という原点に立ち返るための
改革を推し進めたクリュニー修道会でしたが、豪華な典礼儀式を行ったり、
巨大な聖堂を建設するなど、結局は
最初の改革の意志が失われてしまいました。

それに対して再び質素で清貧な原点回帰を目指そうとする修道会が、
クリュニーと同じブルゴーニュ地方で、1098年に誕生します。
それが
「シトー修道会」(Abbaye de Cîteaux)でした。
その清貧思想は、彼らの修道院の建築にも大いに反映されることになります。
このシトー修道会については、第12回の授業で取り上げる予定です。

次回はその前に、フランス・ロマネスクとスペイン、そしてイスラーム文明との
関係について触れたいと思います。

本日は以上です。
次回も http://languedoc.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。

★今回は、出席調査を兼ねて、小コメントを提出していただきます★
第5回~第7回の授業の内容について、自分がその中で一番印象に残ったことや、重要だと思ったことは何か、そしてそこに、できれば自分の意見や感想なども付け加えて、300字以上~400字くらいまでで書いてメールで提出(送信)して下さい。
ワードなどのファイルを添付するのではなく、メール本文に直接書いて下さい。
メールのタイトルには、必ず授業名、学生証番号、氏名を書いて下さい。
例えば次のようにして下さい。
 (例)メールタイトル「特殊講義/5BPY1234/東海太郎」
提出(送信)締切りは、
11月28日(土)の22時までとします。
メールアドレスは、nakagawa@tokai-u.jp です。



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【参考文献】
饗庭孝男『世界歴史の旅/フランス・ロマネスク』山川出版社、1999年。
饗庭孝男『ヨーロッパ古寺巡礼』新潮社、1995年。
馬杉宗夫『ロマネスクの美術』八坂書房、2001年。
朝倉文市『修道院―禁欲と観想の中世』講談社現代新書、1995年
朝倉文市『修道院にみるヨーロッパの心』山川出版社、1996年
佐藤彰一『禁欲のヨーロッパ-修道院の起源』中公新書、2014年
佐藤彰一『贖罪のヨーロッパ-中世修道院の祈りと書物』中公新書、2016年
杉崎泰一郎『12世紀の修道院と社会』原書房、2005年
杉崎泰一郎『修道院の歴史:聖アントニオスからイエズス会まで』創元社、2015年
関口武彦『クリュニー修道制の研究』南窓社、2005年
長塚安司責任編集『世界美術大全集 西洋編8・ロマネスク』小学館、1996年。
堀米庸三『正統と異端-ヨーロッパ精神の底流』中公新書、1964年
前川道郎『聖なる空間をめぐる フランス中世の聖堂』学芸出版社、1998年。
ペーター・ディンツェルバッハー『修道院文化史事典』八坂書房、2014年
DELAMARRE, Barbara, Architecture des Églises Romanes, Éditions Ouest-France, 2015.
DROSTE, Thorsten, La France romane, Les Éditions Arthaud, 1990.
HUREL, Odon, et RICHE, Denyse, Cluny:De l'abbaye à l'ordre clunisien, Xe-XVIIIe siècle,
                             Armand Colin, 2010.
OURSEL, Raymond, Bourgogne romane, Zodiaque, 1991.
PACAULT, Marcel, L'Ordre de Cluny, Fayard, 1986.
SAPIN, Christian, et al., Bourgogne romane, Faton, 2006.
Les Dossiers d''Archéologie, No.269, 2001-12 et 2002-01,
                     Cluny ou la puissance des moines.
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