オンライン授業
ヨーロッパ・アメリカ文明特殊講義D/ヨーロッパ文明特殊講義D

第8回/サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼と「巡礼路教会」

中世の時代、ヨーロッパのキリスト教徒はさまざまな場所に巡礼に行きました。
多くはキリスト教の「聖人」ゆかりの教会や礼拝堂などを訪れたのでした。

「聖人」とは、もっぱら古代ローマ帝国時代から中世初期にかけて、
キリスト教に対する弾圧や迫害を受けて殉教したり、
生前からさまざまな奇跡を起こしたりした者が、
その後、ローマ・カトリック教会から「聖人」として認定された者です。
聖人には、名前に「聖」が付きます。フランス語や英語では「Saint/St」、
「聖女」すなわち女性の聖人場合は「Sainte/Ste」が付きます。
「聖ヨハネ(St-Jean)」「聖マルティヌス(St-Martin)」「聖ヤコブ(St-Jacques)」とか。
女性だと「聖アグネス(Ste-)」とか「聖セシリア(Sainte Cécile)」など。

聖人はものすごくたくさんいます。数え切れないくらいです。
百年戦争の時のジャンヌ・ダルクも20世紀初めに「聖女」に列せられて、
「聖ジャンヌ・ダルク」(Sainte Jeanne d'Arc)となっています。

皆さんにとってなじみ深いのは
「聖バレンタイン」(聖ウァレンティヌス)でしょうか。
今はバレンタイン・チョコで有名ですが、
もともとは3世紀にローマ皇帝による迫害で処刑された人です。
最近では、2005年に亡くなったローマ教皇ヨハネ・パウロ2世も、今では聖人です。
ちなみにローマ・カトリック教会がある人物を公式に聖人に認定することを
「列聖」と言います。
  
聖バレンタイン                        ヨハネ・パウロ2世


そうした聖人の
「聖遺物」は、とりわけ巡礼を集めました。
「聖遺物」とは、聖人の骨とか皮膚とか髪の毛とか、着ていた衣類や持っていた物などです。
聖人は生前にさまざまな奇跡を起こすことが多かったので、
その聖なる力が、そうしたオブジェに宿っていると考えられました。

有名なものでは、イエス・キリストが磔(はりつけ)になって刑死した時の十字架の断片とか、
キリストが頭に付けていた茨の冠とかです。
これらはパリのノートル=ダム大聖堂や、同じくパリのサント・シャペルに保管されています。
また聖母マリアに捧げられた教会などは、それだけで巡礼を集めました。
有名なのはフランスのシャルトル大聖堂です。
そこにあった聖母マリアとイエスの古い聖母子像のおかげで
シャルトルは有名な巡礼地となりました。

そうした「聖人」ゆかりの聖堂をお参りしたり、「聖遺物」を拝んだり触れたりしたら、
病気が治ったり、天国に行けたりという
「御利益」があると信じられました。
日本で神社に行って「ご神体」を拝んで「無病息災・家内安全」を祈願するのと同じですね。

下の写真は南仏プロヴァンスのアルルにあるサン=トロフィーム教会の「聖遺物室」の様子です。
「聖遺物」を入れた「聖遺物箱」がたくさん並べられています。
アルルの場合は聖人たちの「骨」が目立ちます。こうした「聖遺物」をたくさん持っていることが、
その教会の「自慢」でもありました。

 
アルルのサン=トロフィーム教会に並べられている「聖遺物箱」    聖ロックの聖遺物(骨)

 
1世紀頃の無名の聖人の頭蓋骨(アルル)            聖トロフィームの骨(アルル)




このように、「聖遺物」を持っている修道院や教会は、
巡礼をたくさん集めることが出来たのでした。
有名な、あるいは奇跡の力の名高い「聖遺物」であれば、遠方から、あるいは他国からも
巡礼が次々と殺到しました。
「御利益」を求めるだけではなく、
「罪滅ぼし」のための巡礼も行われました。
一種の「ツーリズム(観光)」を兼ねた巡礼もありました。

とにもかくにも、巡礼は
お金をもたらします。
「御利益」や「聖なる力」を期待できる巡礼地の修道院・教会には、
王侯貴族や領主たちも、土地や財産を寄進します。
「聖人」や「聖遺物」は、修道院や教会に、
名声とともに
大きな経済的な繁栄をもたらしたのでした。

そういう訳で、中世には
「聖遺物」獲得競争が激化しました。
聖遺物を巡って、修道院や教会の間で争奪戦が繰り広げられたりもしました。
訳の分からない「聖遺物」を売りつけようとする
怪しげな
「聖遺物ブローカー」もあちこちに現れました。
聖人の骨が欲しいためにその聖人を殺す、といった本末転倒なことまで起きたほどです。

さて、自分の住んでいる村や街の比較的近くの修道院や教会の
ローカルな聖人もうでのための巡礼も数多く行われましたが、
中世の時代に極めつけに有名な巡礼地は3つありました。

ローマ
イェルサレム
サンティアゴ・デ・コンポステーラ

この3つです。
ローマは言わずと知れたローマ・カトリックの総本山です。
なんと言ってもローマ教皇がいます。聖パウロの墓があります。
数え切れないくらいの教会や修道院が、これまた数え切れないくらいの「聖遺物」を持っていました。

イェルサレムは、キリストが刑死した場所で、キリストの墓がありました(聖墳墓教会)。
ただし、ここは中世の間はイスラーム教徒(イスラーム帝国)に占領されていて、
なかなか簡単に行けるところではありませんでした。
十字軍はこのイェルサレムをイスラームから奪い返そうとする軍事遠征活動でしたが、
結局失敗に終わりました。

3つめが、スペイン北西部にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラです。
今日の話は、この地への巡礼がテーマです。


1.サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼                 
スペイン北西部のサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela/
フランス語で、Saint-Jacques-de-Compostelle)巡礼は、
中世期にはイェルサレム、ローマと並ぶヨーロッパの3大聖地の一つに数えられていました。
「サンティアゴ」とはイエス・キリストの十二使徒の一人であった
「聖ヤコブ」(Santo Yacob/Saint Jacques)のことです。
彼の墓が中世の9世紀にスペイン北西部のガリシアのこの地で発見されたことから、
聖ヤコブ崇拝によって、11世紀末頃から、全ヨーロッパからの巡礼を集めるようになりました。
国王、貴族、聖職者、富裕市民のみならず、一般のキリスト教徒民衆を引きつけ、
12~13世紀に頂点に達した。集まった巡礼の数は年間20万とも50万とも言われています。

以下、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の簡単な歴史をまとめておきます。

 
【サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の歴史】
●キリストの十二使徒の一人聖ヤコブ(サンティアゴ)は、キリストの死後、スペインへ福音伝道に来たが、9名の弟子が出来ただけであった。そのうちの7名を連れて、彼はいったんパレスティナへ戻るが、反感を持ったユダヤ人民衆に捕らえられ、ヘロデ王(ヘロデス・アグリッパス)に斬首され、十二使徒で最初の迫害による殉教者となった。

●聖ヤコブの7名の弟子たちは彼の遺骸とともに船に乗った。船はジブラルタル海峡を越え、最終的にたどり着いたのが、かつて聖ヤコブが布教活動をした現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラである。
しかし異民族やイスラムの侵入の混乱の中で墓の場所も忘れられた。

●墓の再発見は、 814年に隠修士(修道士)ペラーヨの前に天使が現れ、聖ヤコブの墓を指し示し、またそこには異様に明るい星が輝いていたという伝説がある。また9世紀初めに羊飼いたちが星に導かれて墓を発見したとも。

●8~15世紀、スペインのレコンキスタ運動とも結びつく。

●11世紀後半頃から、カスティーリア王国によって巡礼路の整備が進められた。道路、橋、宿泊施設などが整備された。また、教会や修道院が巡礼の保護と歓待のために、施療院(オスビタル)/救護所を巡礼路にそって建設した。

●宗教改革期の16世紀には、巡礼は下火になる。

●現在も巡礼がこの道を歩いている。


フランスやヨーロッパの他の国からスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かうルートは
大きく4つありました。下の地図の1から4までのルートです。
(1)トゥールの道:パリを起点とする。
(2)リモージュの道:ブルゴーニュのヴェズレーを起点とする。
(3)ル・ピュイの道:オーヴェルニュのル・ピュイを起点とする。
(4)トゥールーズの道:南仏プロヴァンスのアルルあるいはサン=ジルを起点とする。
            別名「サン=ジルの道」とも言う。

この4つのルートは、とりわけ1~3のルートは、フランスのオスタバという場所で合流して、
フランスとスペインの間に横たわるビレネー山脈を越えてスペインに向かいます。
4のルート(トゥールーズの道)は、もう少し東側でピレネーを越えます。
その後はスペインの北を西に向かい、パンプローナ、ブルゴス、レオンをへて
サンティアゴ・デ・コンポステーラに至ります。




サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路

サンティアゴ・デ・コンポステーラまでは、
パリからだと片道およそ1600キロメートルにおよぶ長旅でした。
巡礼の一日の行程は、1日50キロメートル弱程度です。
ルート沿いにあるローカルな修道院や教会などにも「お参り」をしながら歩きます。
また、曲折したり山がちだったり峠越えがあったりと、かなり厳しい行程です。
フランドル(今のベルギー)のリエージュからサンチャゴ・デ・コンポステラへ巡礼に行った、
ある伯爵一行の記録によると、
往復全行程79日であったそうです。
単純計算で片道35~40日程度になります。

盗賊や追い剥ぎなどに襲われたり、ケガをしたり病気になったりすることも少なくありませんでした。
中世という時代においては、この長旅は、とりわけ一般の庶民にとっては、
まさしく
命がけと言っても言い過ぎではないようなものでした。


2.クリュニー修道会の役割                        
前回の授業で取り上げた
「クリュニー修道会」
このサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の活性化に一役買いました。

8世紀以来、スペインは
ウマイヤ朝イスラーム帝国の支配下にありました。
イスラーム支配からキリスト教ヨーロッパ勢力がスペイン(イベリア半島)を取り戻す戦いを
「レコンキスタ」(再征服運動/国土回復運動)と言い、8世紀から15世紀まで続きました。
この「レコンキスタ」とサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼が、結びついているのです。
というか、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼は、「レコンキスタ」の一環であったのです。
クリュニー修道会は、それを後押ししていたのです。

彼らはイェルサレムに向かった東方十字軍とともに、スペインに向かういわば西方十字軍たる巡礼の
奨励と組織化に努力しました。
また巡礼の隆盛とともに、巡礼路を起点に村や町が新設され、植民が行われました。
クリュニーの指導下で植民が進み成立した都市もあるほどです。
エミール・マールは次のように書いています。

サンティヤゴへの巡礼たちをフランスからピレネーに導く4つの大きな街道筋には、主だった宿場にクリュニー系の修道院[…]があった。[…]11世紀にサンティアゴ巡礼を組織化したのはクリュニーの大修道院長たちである[…]彼らはサンティヤゴの巡礼に、イスラム教徒に対する果てしない聖戦の中にあるスペインのキリスト教徒を救援する最も効果的な手段を見ていたのである。巡礼はそのまま兵士になり得た。使徒ヤコブの墓に詣でるためにピレネーを越えたフランスの騎士たちは、スペインに留まってエル・シッド側について戦ったのである。これらのフランスの騎士たちはフランスのあらゆる地方からやって来た。しかし、中でもブルゴーニュの騎士たちは他の地方から騎士よりもはるかに数が多かった。それは彼らがクリュニー修道会によって組織されていたからなのである。[スペインに対する]十字軍は常にクリュニー修道会の大きな理念の一つでありつづけた。
           (エミール・マール『ロマネスクの図像学(下)』田中仁彦ほか訳、国書刊行会、1996年、91-92頁)


そしてクリュニー修道会の影響は、次の「巡礼路教会堂」にも及ぶことになります。


3.巡礼路教会堂                              
サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼が盛んになるにつれて、巡礼路に沿って、
いわゆる
「巡礼路教会堂」と言われるタイプの聖堂が建設されていきました。
押し寄せる数多くの巡礼たちを、日常のミサなどの儀式の妨げにならないようにしながら、
いかに迎え入れ、そして巡礼たちの要望に応えるようにするか。

そうした必要性に答えるために、当然のことながら
教会堂は大きく広くなります。
こうした「巡礼路教会」の特徴として、エミール・マールは次のような点を挙げています。

 ★巡礼路教会堂の特徴★
①内陣には周歩廊が付き、放射状に祭室が配置される。
②トリビューンを載せた身廊(または側廊)。
③身廊は二重の側廊を伴い、広いトリビューンから採光される。
④側廊を取り込んだ広い翼廊(トランセプト)。
⑤トランセプト交差部にそびえ立つ鐘楼。
         (エミール・マール『ロマネスクの図像学(下)』田中仁彦ほか訳、国書刊行会、1996年、101-102頁)



★具体例1

トゥールのサン=マルタン教会(Église Saint-Martin de Tours)
 
「巡礼路教会堂」の最初の起源はどこなのかという問題はなかなか難しいのですが、
一般に、巡礼路教会堂のもっとも最初の原型は、フランスのロワール地方にある
トゥールのサン=マルタン教会であるとされています。
これもまたエミール・マールは次のように書いています。

 ロマネスク時代が創出した最も雄大な[巡礼路教会という]この型の教会はいったいどこで生まれたのか。母体となった教会はどこにあったのか。[……]トゥールのサン・マルタン教会、フランスの巡礼教会堂で最も古く最も美しいこの教会において、[巡礼路教会という]このような壮大な構想が現れたことは少しも驚くには当たらない。この構想は数千人もの巡礼を受け入れる大教会堂にふさわしいものであった。身廊の二重の側廊、翼廊の二重の側廊が群衆を分けて、そこに秩序を与えた。一方、周歩廊のおかげで人びとは聖なる墓を一巡り出来たのである。それゆえ、コンポステーラへの巡礼路にあるすべての教会のモデルはサン・マルタン教会であった。(エミール・マール『ロマネスクの図像学(下)』104-108頁)

トゥールのサン=マルタン教会は、997~1014年に建設されました。
フランスでは最も有名な聖人でもある聖マルティヌス(聖マルタン)
ゆかりの聖堂として多くの巡礼を集めました。
内陣には回廊があり、放射状に配列された5つの祭室があった。
身廊には二重の側廊が並び、翼廊(トランセプト)にも側廊が付いていました。
また、身廊には半円形アーチのアーケードが並び、その上には高いトリビューンも付いていました。
要するに、押し寄せる多くの巡礼をさばくための大きな構造を持った
最初の教会堂であったということです。
残念ながら18世紀後半のフランス革命の後で大部分が破壊されてしまいました。
    
破壊されるサン=マルタン教会(WEBより)    現在わずかに残る塔の部分(1995.8.18) サン=マルタン教会平面図



★具体例2
トゥールーズのサン=
セルナン・バジリカ教会(Basilique Saint-Sernin de Toulouse)
上の「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路」の「4」にあります。
1080年頃から建築開始され1118年に完成しました。
1060年頃からとも言われます。
聖セルナン(サトゥルニヌス)は3世紀中頃のトゥールーズ司教です。
ローマ皇帝崇拝を拒み、ユピテル神殿でイエスの教えを説いたため、250年、捕らえられて
2頭の雄牛につながれて市内を引き回され、殉教(刑死)しました。
その墓はすぐに巡礼の対象となって礼拝堂が建てられました。

その後、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の一大中継地点として繁栄します。
全体が赤いレンガで作られています(この地方のもの)。

トゥールーズのサン=セルナン・バジリカ聖堂、後陣(2009.8.18)

聖堂南側にある「ミェジュヴィルの門」(porte Miégeville)彫刻は、
12世紀(1100~1110年頃)のもので、広く南仏全体、
そしてスペインにまで影響をおよぼしたと言われます。
半円形壁面(タンパン)の彫刻には昇天するキリストとそれを見守る天使たち、
そのすぐ下のリンテル部分には、やはり昇天するキリストを仰ぎ見る使徒たちがいます。
タンパンをはさんで右側が聖ペテロ、左側が聖ヤコブです。


ミェジュヴィルの門(2012.9.5)


聖堂内部はやはり広く、主身廊の両側に側廊がそれぞれ2つずつ並び、合計で5廊式となっています。
さらに十字架型の両腕に相当するトランセプト(翼廊)にも側廊が付いていて、
後陣には内陣の周囲を巡る「後陣回廊」まで付いています。
巡礼たちは、中央で行われているミサなどの儀式を邪魔することなく
入口から後陣まで巡ることが出来たのでした。
  
サン=セルナンの平面図                主身廊。西から東の内陣・後陣を見る。

 
主身廊の横に並ぶ側廊。                     後陣回廊にあるキリストの彫刻

「巡礼路教会」のうち、トゥールーズとサンティアゴ・デ・コンポステーラでは
どちらが古いのか、という議論があります。
フランス・トゥールーズのサン=セルナン・バジリカ聖堂なのか、
スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂なのか?

フランスの歴史家はトゥールーズの方が古くて、
それがスペインに影響を与えたのだと主張し、
逆に
スペインの歴史家は、サンティアゴ・デ・コンポステーラの方が古くて
それがフランスに影響を与えたのだと主張しています。
国同士の、ちょっとナショナリスティックな対立ですが、最近の研究では、聖堂の建築年代から見て、
トゥールーズ(1060年頃から建築が開始され1118年に完成)の方が、
サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂(1078年に建設開始、1122~1124年頃に完成)よりも
少し古いので、やはり「巡礼路教会堂」としてはトゥールーズの方が古い原型であると言えるでしょう。
ただし、この論争は建築の建設年代に関わる問題なので、
今後の研究結果によってはまだまだ議論の余地があと思われます。



★具体例3
コンクのサント=フォア教会(Ancienne Abbatiale Sainte Foy, Conques)

上の「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路」の「3」にあります。
一番最初は、聖アマドールによってこの地に修道院が創設されました。
最初の建築物はメロヴィング朝時代に建てられたものです。
819年に、ベネディクト派の修道院が設立されました。

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路の拠点として繁栄しました。
14世紀からペストや百年戦争などによって衰退が始まり、
16世紀の宗教戦争による略奪も打撃となりました。

コンク(2003.9.1)

現在の教会の建築は、1045年または1050年頃から15年かけて再建されたものです。
サンチャゴ巡礼路にあるロマネスク建築としては最古のものの一つです。
非常に有名な正面タンパンは
「最後の審判」です。
1120~1130年代、後期ロマネスクのものとされています。
部分的に昔の彩色のあとが見られます。
そこには124人の人物が登場します。
天国への人々は、聖母マリアに導かれ、鍵を持つ聖ペテロ、隠士、聖アントニウス、
聖ベネディクトゥスがシャルルマーニュ(コンクの修道院建設に力があった)を率いています。

地獄のサタンは、旧約聖書の『ヨブ記』に出てくる「レヴィアタン」です。
鎖に繋がれた男女は「淫乱」、馬から突き落とされているのは「傲慢」、
首に大きな袋を下げて木に吊されているのは「吝嗇(りんしょく)/守銭奴」
聖女フォワと「神の手」も見られ、聖女フォワによって解放された人々も下段にいます。

コンク、西ファサードのタンパン(2018.6.18)


西ファサードのタンパン(拡大)
 
夜のイルミネーション・ショー(2018.6.18)                    コンクの平面図

 

トゥールーズのサン=セルナン・バジリカ聖堂と同じく、高さのある主身廊とその両側に側廊、
やはり側廊の付いた翼廊(トランセプト)と放射状祭室の付いた半円形の後陣があります。
次々にやって来る巡礼たちが中を巡れるようになっています。
今日では、観光客が次々とやって来て、同じように堂内を巡っています。
ここはフランス・ロマネスクでも有名なところなので、日本と人観光客にも人気があるところです。

コンクには、ロマネスク美術の中でも非常に有名な、人の形をした「聖遺物入れ」があります。
「聖女フォワの黄金像(聖遺物入れ)」(La statue-reliquaire de Ste Foy)と呼ばれるものです。
3世紀後半(ローマ皇帝マクシミリアンの時代)、この地方の貴族の娘であった少女フォワが、
キリスト教信仰に対する迫害を受けて12歳の若さで、この近くのアジャンという街で殉教しました。
856年あるいは866年、コンクの僧アリヴィスキュスが、アジャンの修道院にあった
聖女フォワの聖遺骨を秘かに盗み出して、コンクに持ち帰り、この黄金像に入れて保管したのです。
おかげでコンクは人気のある巡礼地となったのでした。

この像自体は、ローマ帝国末期のもので、10世紀末まで徐々に手が加えられたと言います。
この聖女フォワの聖遺物は、さまざまな奇跡を起こし、
戦いは収まり、平和が到来し、囚人は解放されたと伝えられています。
はるばるこの地を訪れた巡礼たちは、このきらきら輝く黄金像を見て、さぞかし感激して
これを拝み、無病息災と死後の天国行きを祈願したことでしょう。
ちなみにこの写真は2003年9月に撮影したものですが、2018年6月に再び訪れた時には、
残念ながら「撮影禁止」になっていました。
 ← 聖女サント=フォワの黄金の聖遺物入れ(2003.9.1)


★具体例4
サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂(Ancienne Abbatiale Sainte Foy, Conques)



言うまでもなく、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の終着点です。

キリストの十二使徒の一人、
聖ヤコブの墓が発見された場所の上に建てられました。
現在の大聖堂の大部分はロマネスク時代である1075~1078年着工されました。
レオン・カスティーリア王国のアルフォンソ6世の時代にあたります。
その後、ゴシック様式とバロック様式の増築が重ねられながら建設が続けられました。
外部は完全にバロック時代(16~17世紀)の建物のように見えます。
正面ファサード(オブラドイロの正面入口)は、
フェルナンド・デ・カサス・イ・ノボアによるバロック建築の傑作とされています。
ふんだんに彫刻が施され、直線と曲線の巧みな効果が荘厳さと躍動感を与えています。
中央の尖塔の左右には華麗な2本の塔があり、上にのびる線を高めています。
 
サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂平面図(左:Michelin/右:WEBより)


正面入口を入ってすぐのところに有名な
「栄光の門」があります。
12世紀末に名匠マテオによって作られました。たとえようもない美しさと言われ、
その表現力、細部、技法、多色装飾など、変化に富んだ芸術の可能性が見事に実現されています。
ヨハネの黙示録をもとにした200体にものぼる彫像が付けられています。
栄光のキリストは4人の福音書家に囲まれ、さらにその上を黙示録の24人の長老が
アーチ状に取り囲んでいます。キリストの足もとの柱には聖ヤコブの彫刻があります。

サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂「栄光の門」(WEBより)


大聖堂内部は、南北両側に側廊が並ぶ非常長い身廊、やはり側廊の付いた翼廊(トランセプト)、
放射状祭室の並ぶ後陣回廊というもので、ここまで見てきた他の「巡礼路教会堂」である
トゥールーズやコンクとほぼ同じ構造をしています。
 
サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の主身廊(2012.9.11)


 

内陣の上の祭壇には、
聖ヤコブの立像が置かれています(↑右上の写真)。
横から回って、その裏に行けるようになっています。
巡礼たちや観光客は、列を作って順番に立像の裏に回り、
その立像を触ったり抱きしめたりするのです(↑左上の写真)。

2012年9月、ヨーロッパ文明学科(ヨーロッパ・アメリカ学科の前身)の
「ヨーロッパ実地研修」で、
私が引率して「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の旅」に行きました。
学生40人ほどを連れてフランスのトゥールーズからピレネー山脈を越えて
サンティアゴ・デ・コンポステーラまで、約1週間かけて中世の巡礼路をたどりました。
と言っても、中世の巡礼たちのように徒歩で行ったわけではなく、
バスをチャーターしての旅だったのですが。
それでもフランスからはるばるスペイン北西端のサンティアゴ・デ・コンポステーラに着いて
大聖堂を見た時には、大きな感激にひたったものでした。

ヨーロッパ実地研修で訪れたサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂(2012.9.11)


個人的なことなのですが、実はその同じ2012年の3月に、
私は消化器の腫瘍を摘出する8時間にもわたる
大手術を受けていました。
悪性のがんに半分なりかけているという腫瘍で、このまま何もせずに放っておいたら
せいぜいあと2年くらいの命だと医者に言われたものでした。

十二指腸全部、胆のう全部、胃の3分の1、膵臓の4分の1をガッツリ取ってつなぎ合わせるという
大規模な手術でした。おかげで術後は体重が20キロくらい減ってしまいました。
退院して2~3ヶ月は食事にも不自由しました。
こんなカラダで学生たちとスペインに行けるのかなと心配しましたが、
まぁ何とか行って帰ることが出来ました。

私はクリスチャンではありませんが、巡礼路のあちこちの教会を見学し、
サンティアゴ・デ・コンポステーラで聖ヤコブの立像を抱きしめました。
そのおかげかどうか分かりませんが、その後も体力は順調に回復し、再発もせずに今日に至っています。
病気の回復を祈りながら長い旅路を歩いた中世の巡礼たちの気持ちもこんな感じだったのでしょうか。
中世の巡礼たちは、病気の回復などとともに「天国に行けること」も祈ったのですが、
私の場合、天国に行けるかどうかについては分からないですね。
日頃の行いはあまりよろしくないので、天国行きなどはとても期待できないかも知れません(笑)。

あれから8年が経ちました。当時4年生だった学生はもう30歳です。
みんな、それぞれ元気で活躍していることでしょう。
実地研修に参加した卒業生の皆さんに、
どうか聖ヤコブの御利益がありますように。


今回は、クリュニー修道会や「巡礼路教会堂」など、
フランス側からスペインへの影響の大きさについて話しました。
次回はその逆で、スペインの側からフランスへのいろいろな影響について取り上げます。

本日はここまでです。
次回も http://languedoc.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。


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【参考文献】
パウロ・コエーリョ『星の巡礼』山川紘矢ほか訳、角川文庫、1998年。
エミール・マール『ロマネスクの図像学』上下巻、田中仁人ほか訳、国書刊行会、1996年。
饗庭孝男『世界歴史の旅/フランス・ロマネスク』山川出版社、1999年。
饗庭孝男『ヨーロッパ古寺巡礼』新潮社、1995年。
小谷・粟津『スペイン巡礼の道』新潮社、1985年。
馬杉宗夫『ロマネスクの旅-中世フランス美術探訪』日本経済新聞社、1982年。
馬杉宗夫『ロマネスクの美術』八坂書房、2001年。
聖心女子大学キリスト教文化研究所編『宗教文明叢書Ⅰ/巡礼と文明』春秋社、1987年。
関口武彦『クリュニー修道制の研究』南窓社、2005年。
田沼・矢野『スペイン巡礼の旅』NTT出版、1997年。
長塚安司責任編集『世界美術大全集 西洋編8・ロマネスク』小学館、1996年。
前川道郎『聖なる空間をめぐる フランス中世の聖堂』学芸出版社、1998年。
山崎脩『スペイン巡礼星の道』京都書院、1998年。
歴史学研究会編『地中海世界史4/巡礼と民衆信仰』青木書店、1999年。
渡辺昌美『巡礼の道』中公新書、1980年。
渡邊昌美『フランスの聖者たち』大阪書籍、1984年。
『週刊世界遺産65/サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路』講談社、2002年
HUCHET, Patrick, Les chemins de compostelle en terre de France. Éditions Ouest-France, 1997 et 1999.
HUCHET, Patrick, Les chemins de compostelle en terre d'Espagne. Éditions Ouest-France, 1997 et 1999.
PACAULT, Marcel, L'Ordre de Cluny, Fayard, 1986.
Les Dossiers d''Archéologie, No.269, 2001-12 et 2002-01,
                     Cluny ou la puissance des moines.
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