オンライン授業
ヨーロッパ・アメリカ文明特殊講義D/ヨーロッパ文明特殊講義D
第9回/スペインからの影響
前回は、クリュニー修道会やサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼などを採り上げ、
そうした動きが「巡礼路教会」という形で、フランスだけではなく、
スペインにまで影響を与えたことについてお話ししました。
本日は、今度はその逆、つまりスペインからの影響がフランス側にどのように及んでいたか
というお話です。
フランスとスペインは、ピレネー山脈をはさんで隣り合っていて、
古くから政治的・経済的・文化的交流と影響関係が強かったのです。
1.歴史的背景
①サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼
中世の間、フランス側からピレネー山脈を越えて、スペインへと巡礼たちが出かけていきました。
フランスだけではなく、フランスを通ってフランドル(オランダ・ベルギー)やドイツ、
あるいはスイスやイタリアからも巡礼がスペインへと向かいました。
この巡礼は、前回お話ししました。
②バルセロナ伯の南仏への勢力拡大
12世紀頃、実はフランスの南部はスペインの支配下にありました。
言い方を変えると、フランス南部は一時はスペイン領だったのです。
少し歴史的な話をします。
古代ローマ帝国の後、フランク王国を統一したカール大帝(フランス名シャルルマーニュ)は、
イベリア半島(スペイン)を占領していたイスラーム勢力(後ウマイヤ朝イスラーム帝国)
に対する攻撃を試みます。
彼は軍を率いて778年からイスラーム討伐のためのイベリア半島に対する遠征を開始したのです。
サラゴサなどイベリア半島北部の制圧には成功するものの、そこからフランス側に撤収する際に
ロンスヴォー峠でピレネー山脈土着のバスク人の襲撃を受けて、大損害を出します。
この時に戦死したブルターニュの騎士ローランの戦いを描いた武勲詩『ローランの歌』は
中世の騎士文学として有名です。
カール大帝はその後、イスラーム勢力との間のスペイン北部に防御のために
「スペイン辺境伯領」を設定しました。
「辺境伯」(Marquis, Markgraf)とは、王国や帝国の周辺地域に防衛のために置かれた
地方長官のような封建貴族の称号で、普通の伯(伯爵)よりもランクは上であると言われています。
「スペイン辺境伯領」は、伯(伯爵)が支配するいくつかの「伯領」が
集まって構成されていました。
そのうちのひとつ、最も東側に位置していたのが「バルセロナ伯領」でした。
支配者は「バルセロナ伯」(comte de Barcelona)です。
この「バルセロナ伯」は、周辺の伯領も同時に支配して力を強め、
10世紀後半にフランク王国位がカロリング家からカペー家に変わる頃から、
本来の主君であったフランク王権との関係は名目的なものに過ぎなくなり、
事実上の独立国となりました。

10世紀頃のバルセロナ伯領
上の地図の赤い線で囲った部分が、バルセロナ伯領で、
青い矢印と青い星印で示したところがバルセロナ(Barcelona)です。
スペインのおおよそ北東端の地中海岸沿いにあたります。
このバルセロナ伯領は、いわゆる「カタルーニャ州」です。
スペインからしょっちゅう独立しようとする、独自の文化を保つ地方です。
言語は今でもスペイン語と共にカタルーニャ語を話します。
バルセロナはこのカタルーニャ州の州都で、スペインでも首都のマドリードに次いで
第2の人口を擁する大都市です。
1992年にはバルセロナ・オリンピックが開かれました。
サッカーが好きな人にとっては「バルサ」すなわち「FCバルセロナ」の本拠地ですね。
また建築家ガウディの「サグラダ・ファミリア」(聖家族教会)が有名で、
世界中から観光客を集めています。
よく学生が卒論のテーマとして選んだりするものでもあります。
さて歴史の話に戻ります。
バルセロナという名前は、もともとは古代ローマと戦ったカルタゴの名将ハンニバルの家の名である
「バルカ家」から取られました。
中世にはバルセロナはバルセロナ伯領、すなわちカタルーニャ地方の中心都市として栄えます。
1112年から、バルセロナ伯レーモン・ベランジェ3世(Ramon Berenguer III, 1082-1131)が、
結婚によって南フランスのプロヴァンス伯の位と領地を
獲得します(プロヴァンス伯としてはRaimond Bérenger Ier le Grand)。
プロヴァンス伯領の当主であった女性のプロヴァンス女伯ドゥース(Douce, 1090-1130)と
結婚したのです。
中世封建時代は、女性でも貴族の位と領地を相続することが出来ました。
しかしその女性が結婚すると、伯位と領地はそのまま夫にも継承されたのです。
戦争をして苦労の末に敵から土地を奪い取るよりも、
うんと効率的で、しかもガッツリと自分の家の領地を広げることが出来ますね。
1125年には、やはり南フランスで勢力を拡張していたトゥールーズ伯との間で
プロヴァンスの分割協定を結びます。
トゥールーズ伯はデュランス川の北、バルセロナ伯は南を領有しました。
これによって、スペインのバルセロナ伯は、ピレネーを越えて
はるか今のイタリア国境近くまで支配領地を広げることが出来たわけです。

上の地図の赤い部分は、プロヴァンス東部まで拡大したバルセロナ伯の支配地です。
青い星印のところにはなんと「バルセロネット」という街まであります。
これはレーモン・ベランジェ3世の息子で、
バルセロナ伯兼プロヴァンス伯のレーモン・ベランジェ4世(1113-1162/64)が
1241年に創建した街です。
フランスなのに、バルセロナ風の名前が付いた街があるのは、
この地が中世にスペイン(バルセロナ伯)の支配地だったからです。
バルセロネットの街の紋章も、スペインのバルセロナと同じ柄です。

バルセロナの街の紋章 バルセロネットの街の紋章
ちなみにさらにその息子のアルフォンソ(Alphonse II d'Aragon, 1157-1196)は、
スペイン北中部のアラゴンの国王位も獲得するので、
バルセロナ伯国はさらに強大なものになっていきます。
ちなみに、この「バルセロナ伯」の肩書きは、現代にまで受け継がれています。
ただし、今はブルボン家につながるスペイン国王が兼帯するするものとなっていて、
2020年現在のバルセロナ伯はスペイン国王フェリペ6世です。
彼には跡継ぎとして現在15歳のレオノール王女(Leonor de Borbón y Ortiz)がいるので、
将来はこのレオノールちゃんがスペイン女王兼バルセロナ女伯となると思われます。

現スペイン国王フェリペ6世 スペイン王女レオノール(2018年、13歳)
上の写真でレオノールちゃんが胸に付けているのは、
中世末期の1430年に、フランスのブルゴーニュ公国で創設された
「トワゾン・ドール(金羊毛)騎士団」の勲章です
(よく見たらお父さんのフェリペ6世も首の所に付けてます)。
さまざまな歴史的経緯から、この騎士団の勲章も今はスペイン国王に受け継がれているのです。
レオノールちゃんはフランスの由緒あるトワゾン・ドール騎士となったわけですが、
スペイン女王になったら、今度は正式に騎士団の総長となり、
さらに言うと、「ブルゴーニュ公」の肩書きまで得ることになります。すごいですね。
(ただし「ブルゴーニュ公国」は今は存在しないので、あくまでも
名誉的で形式的なものに過ぎません)
さて、また歴史の話に戻ると、
13世紀に入って、スペインとフランスの間で領土紛争が続きます。
ピレネー山脈をはさんで領土を取ったり取られたりが繰り返されます。
しかし1258年に、時のアラゴン王・バルセロナ伯ハイメ1世が、フランス国王ルイ9世と
「コルベイユ条約」を結び、フランス国王はバルセロナ伯領への封建的な宗主権を公式に放棄、
バルセロナ伯はピレネー以北のラングドックとプロヴァンスの領有権を放棄しました。
これでピレネー山脈をはさんだフランスとスペインの間の国境は確定し、
今日にまで至っています。
2.スペインからフランスへの影響/黙示録ベアトゥス写本の伝播
※これについては、
第6回目の授業「モニュメンタル彫刻の誕生・モワサックとベアトゥス『黙示録』写本」
で取り上げましたので、ここでは省略します。
3.スペインからフランスへの影響/馬蹄形アーチ
中世のスペインからフランスへと影響がもたらされた建築的要素として
しばしば挙げられるのが「馬蹄形アーチ」です。
これは「4分の3アーチ」とも言います。アーチの開口部(円弧部分)が、
アーチの載る左右の側柱よりも大きくなっていて、まるで馬の蹄(ひづめ)のような
形をしていることからそう呼ばれるようになりました。

スペイン、ペニャルバのサンチャゴ教会(WEB)。典型的な「馬蹄形アーチ」。
古くは古代インドやササン朝ペルシア帝国時代の建築、
そしてまた古代ローマ時代にも見られます。
イベリア半島を征服したイスラームり建築に数多く見られます。
なので、あたかもイスラーム建築の要素と見られたりします。
しかしイベリア半島にイスラームが侵入してくる前は、ここには西ゴート王国がありました。
イベリア半島におけるこの「馬蹄形アーチ」のもともとの起源が、イスラーム建築にあったのか、
それとも西ゴート建築にあったのか、ということについては、これまでもかなり論争がありました。
しかし、イスラームが入ってくる前にイベリア半島にあった西ゴート王国のキリスト教建築ですでに
この「馬蹄形アーチ」が用いられていたことなどが明らかになって、
今では、それをイスラームが採り入れて彼らの建築に大々的に多用するようになった
という見方が強くなっています。
その西ゴート王国時代における教会建築の「馬蹄形アーチ」の例を見てみましょう。
◆サン・ペドロ・デ・ラ・ナーベ教会(Iglesia de San Pedro de la Nave )
西ゴート王国のキリスト教建築です。建設は680年から711年(西ゴート滅亡の年)頃で、
現存する西ゴート様式の建築物の中でも最後期のものてです。イスラム支配以前の教会です。
そこにすでに「馬蹄形アーチ」が見られます。

サン・ペドロ・デ・ラ・ナーベ教会(WEB)

◆コルドバの「メスキータ」(mezquita)
そして次にこの西ゴート王国を711年に滅ぼしてイベリア半島を征服したのがイスラーム帝国でした。
756年に成立した後ウマイヤ朝はコルドバを首都とします。
その中心となるものはモスク(メスキータ)でした。建設は785年からです。

コルドバのメスキータ(WEB)

コルドバ、メスキータの馬蹄形アーチ
◆「モサラベ」様式/サン・ミゲル・デ・エスカラーダ教会
さてこうしてイベリア半島を占領したイスラーム帝国ですが、
その中には征服されたキリスト教徒たちもいました。
イスラーム教徒たちは、こうした征服されたキリスト教徒を絶滅させるようなことはせず、
税金を払えば定住を許しました(逆の立場になったキリスト教徒よりはうんと寛大です)。
このようなイスラーム支配下のキリスト教徒のことを「モサラベ」と呼びます。
とりわけイベリア半島南部の「アル=アンダルス」すなわち「アンダルシア地方」に
残っていたキリスト教徒のことを指します。
彼らが守った芸術様式を「モサラベ」様式と言います。
スペインにおける中世キリスト教美術の一様式です。
支配しているのはイスラーム教徒なので、当然イスラム文化の影響を受けた
独自の特徴を持っています。
彼らは9世紀頃からイスラーム側から圧力を受けるようになりますが、
11世紀頃からそれが大々的な弾圧に変わっていきます。
さらにまたレコンキスタが進展してきたこともあって、「モサラベ」たちは、
次第に半島南部から北部へと移住していきました。
それに伴って「モサラベ様式」の芸術も北部へと広がっていったのでした。
9世紀頃からレオンやトレドを中心に馬蹄形アーチのような
イスラーム的建築モチーフを使った聖堂が建てられて行きます。
サン・ミゲル・デ・エスカラーダ教会(Monasterio de San Miguel de Escalada)は、
1050年頃に建設された典型的なモサラベ建築と言われます。
「馬蹄形アーチ」の連続するアーケードが美しい教会です。
コルドバのモスクの影響が強いとも言われます。

サン・ミゲル・デ・エスカラーダ教会(WEB)

「馬蹄形アーチ」の並ぶアーケード
◆フランス側の例/サン=ミシェル=ドゥ=キュクサ修道院教会(Abbaye de St-Michel-de-Cuxa)
「サン=ミシェル=ドゥ=クージャ修道院」とも言います。
ピレネー山脈の北のフランス側に見られる「馬蹄形アーチ」の例です。
この修道院は、11世紀~12世紀に建設されました。
もとはセルダーヌ公セニオフレードが953年に創建したものをその後改築と拡張しました。
教会内部の側壁などのアーチに「馬蹄形アーチ」が見られます。
イスラムの文化的影響が、「モサラベ」などによってフランス側にもたらされたものとも言えます。
なお見事なクロワトルはフランス革命で破壊されてしまいました。

サン=ミシェル=ドゥ=キュクサ修道院教会(2003.8.25)

↑ 馬蹄形アーチ(2003.8.25)
◆スルニアのサン・ミシェル礼拝堂(Chapelle St-Michel, Sournia)
やはりピレネー山脈のフランス側、現在の東ピレネー県にある10世紀後半頃建設の
古いプレ・ロマネスク教会です。スルニアという小さな村のはずれの山の中にあります。
上記のサン・ミシェル・ドゥ・キュクサ修道院の管轄下にあった西ゴート様式の小聖堂です。
聖堂の外壁にも、また内部の祭室の壁にも、はっきりと分かる「馬蹄形アーチ」が作られています。
2015年の夏に訪れたのですが、最初はスルニアにいる村人に聞いても分かりませんでした。
村外れを歩く親子連れの村人に聞いたらようやく「ああ、あの廃墟みたいな教会だね、
この細い道をまっすぐ行ったら小さな看板が出てるよ。そこから山道を登るとたどり着くよ」
と教えてくれました。
その「小さな看板」というのが、本当に壊れかけた、やっとのことで見分けのつく木の板で、
危うく見過ごすところでした。ハイカーの登山道みたいなのをしばらく登ると、
ようやく大きな「馬蹄形アーチ」が迎えてくれました。

スルニアのサン=ミシェル礼拝堂(2015.8.22)

聖堂の外壁や側壁に開けられた大きな「馬蹄形アーチ」(2015.8.22)
4.スペインからフランスへの影響/縞模様
イスラーム建築には、アーチを色の違う石を組見合わせることでシマシマの縞模様にする伝統があります。
イベリア半島(スペイン)では、典型的にはやはりコルドバの「メスキータ」に見られます。

コルドバのメスキータ
◆ヴェズレーのサント=マリー=マドレーヌ教会(Ste-Marie-Madeleine de Vézelay)
フランス中部のブルゴーニュ地方ヴェズレーには、ロマネスク様式の修道院教会として
非常に有名なサント=マリー=マドレーヌ教会があります。
修道院は861年に、ベネディクト会修道士によって創建されました。
現在残る教会が建てられたのは、1120~1130年にかけてです。
ヴェズレーはサンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼の起点のひとつです(第7回の授業を参照のこと)。
教会のヴォールト(天井)に架かる「横断アーチ」が、シマシマ模様です。
身廊と側廊を隔てるアーケードのアーチも同様にシマシマ模様になっています。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼などによって
イスラームの様式がスペインから伝わったものとも言われます。

ヴェズレーのサント=マリー=マドレーヌ教会

ヴェズレーの「シマシマ模様」(2004.8.11)
◆ル・ピュイ=アン=ヴレイのノートルダム・ドゥ・アノンシアシオン大聖堂
(La cathédrale Notre-Dame-de-l'Annonciation, Le Puy-en-Velay)
ここもまたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の起点のひとつです。
最初の教会は5世紀初頭に建てられましたが、12世紀には現在の形になりました。
オーヴェルニュの石を積んで作られています。134段の階段を登ると
大きくて迫力のある大ファサードが迎えてくれます。
4段構えとなったファサードのアーチは「シマシマ模様」です。
これもまたイスラームの影響と言われています。
同じ「シマシマ模様」は、ここだけではなくて、
クロワトル(方形の回廊・中庭)のアーケードにも見られます。
なおこのル・ピュイの大聖堂には、有名な「黒い聖母」の像があります。
おそらくは17世紀に作られたものです。
実はもともとここにあったオリジナルの「黒い聖母」の像は、1789年のフランス革命の後、
1794年に大聖堂から引きずり出されて燃やされてしまったそうです。残念なことです。

ル・ピュイ大聖堂の西ファサード(2009.8.15)

ル・ピュイ大聖堂のクロワトル 黒い聖母の像。下の顔は幼子キリスト。
5.スペインからフランスへの影響/クーポール
「クーポール」とは、教会建築の上に載せられる「円蓋」(丸いドーム)のことです。
この「クーポール」を下から見上げた時に見えるドームの天井部分の
リブ・ヴォールト(あばら骨の様なアーチが天井を支えている)の仕様が、
イスラーム建築では星形のように装飾的に付けられています。
これもまたコルドバの「メスキータ」にあります。
フランスでは、南フランスの例えば
ロピタル・サン・ブレーズ教会(Église Saint-Blaise, L'Hôpital Saint-Blaise)
にそれが見られます。
ロピタル・サン=ブレーズは、12世紀終わり~13世紀初め頃に建設された
後期ロマネスクの小さな「巡礼路教会」です。
平面の形は、小さなギリシア十字の集中形式となっています。
クーポールの星型リブ、窓まわりの細かい装飾に、
スペイン経由のイスラーム様式の影響が見て取れます。
← コルドバ、メスキータの「クーポール」

ロピタル・サン=ブレーズ教会(2006.3.15)

ロピタル・サン=ブレーズ教会のクーポール 星形の窓装飾
5.スペインからフランスへの影響/その他
最後に建築以外ですが、スペインのイスラームからの影響ということでひとつ紹介します。
それは上のロピタル・サン=ブレーズ近くにある
レスカール大聖堂(Cathédrale Notre-Dame-de-l'Assomption)の床モザイクです。
そのモザイクには「義足を付けた狩人」が登場するのです。
中世の間、医療技術に関しては、ヨーロッパよりもイスラームの方がうんと進んでいました。
「義足」の技術もイスラームの方が進歩していて、この床モザイクの絵は、
それがフランス側に伝わっていたことを表したものと言われています。

レスカール大聖堂

「義足を付けた狩人」の床モザイク、レスカール(2018.6.25)
ちなみに、この「レスカール」の街の紋章は「三日月と星」です。
これもまたイスラームのシンボルとほとんど同じですね。
中世の間、イベリア半島(スペイン)からのイスラーム文化の影響というのは、
とても大きかったのです。

南仏の街レスカールの紋章 イスラームの国トルコの国旗
本日の話を簡単な図でまとめると、次のような感じでしょうか。
イベリア半島の西ゴート王国の建築様式が、そこを占領したイスラーム文明に受け継がれ、
そのあるものは直接フランスへ、そしてまたあるものは「モサラベ」を介して
フランスに入っていったということになります。

本日はここまでです。
次回も http://languedoc.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【参考文献】
パウロ・コエーリョ『星の巡礼』山川紘矢ほか訳、角川文庫、1998年。
エミール・マール『ロマネスクの図像学』上下巻、田中仁人ほか訳、国書刊行会、1996年。
饗庭孝男『世界歴史の旅/フランス・ロマネスク』山川出版社、1999年。
饗庭孝男『ヨーロッパ古寺巡礼』新潮社、1995年。
馬杉宗夫『ロマネスクの旅-中世フランス美術探訪』日本経済新聞社、1982年。
馬杉宗夫『ロマネスクの美術』八坂書房、2001年。
小谷・粟津『スペイン巡礼の道』新潮社、1985年。
櫻井義夫・堀内広治『フランスのロマネスク教会』鹿島出版会、2001年。
田辺保『フランス 巡礼の旅』朝日選書、2000年。
田沼・矢野『スペイン巡礼の旅』NTT出版、1997年。
長塚安司責任編集『世界美術大全集 西洋編8・ロマネスク』小学館、1996年。
前川道郎『聖なる空間をめぐる フランス中世の聖堂』学芸出版社、1998年。
山崎脩『スペイン巡礼星の道』京都書院、1998年。
『週刊世界遺産65/サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路』講談社、2002年
HUCHET, Patrick, Les chemins de compostelle en terre de France. Éditions Ouest-France, 1997 et 1999.
HUCHET, Patrick, Les chemins de compostelle en terre d'Espagne. Éditions Ouest-France, 1997 et 1999.
PACAULT, Marcel, L'Ordre de Cluny, Fayard, 1986.
Les Dossiers d''Archéologie, No.269, 2001-12 et 2002-01,
Cluny ou la puissance des moines.
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
中川研究室ホームページ/TOPページへ