オンライン授業
ヨーロッパ・アメリカ文明特殊講義D/ヨーロッパ文明特殊講義D

第11回/シトー修道会とその建築              
第7回の授業で「クリュニー修道院」を取り上げました。
クリュニー修道院(またはクリュニー修道会/Abbaye de Cluny)は、
9世紀~10世紀にかけて、教会や修道院の腐敗・堕落が進んでいたことに対して、
初心に戻って本来の修道生活の実現を掲げ、修道院改革に乗り出した修道会でした。
910年(または909年)に、フランス中部のブルゴーニュ地方クリュニーの地に創建されました。

クリュニー修道会は、ベネディクト会の「戒律」(聖ベネディクトゥスの会則)を導入し、
ベネディクト派としてその戒律を厳格に守り、世俗の政治権力などからも独立して、
ローマ教皇直属の組織として改革を進めました。
そして、あらためて「清く、正しく、慎ましく」という原点に戻ろうとしたのでした。
世界史の用語では、いわゆる
「クリュニー改革」と呼ばれるものです。

クリュニー修道会の活動は、一般の農民たちだけではなく上層階級の支持も受けました。
諸侯・領主などから、次々と土地や財産の寄進を受けて、クリュニーは拡大・繁栄を続けました。

第7回の授業でも述べたように、クリュニー修道会は11世紀以降、
ヨーロッパ各地に傘下となる修道院を次々と建設し、
分院体制に基づく中央集権的組織を発達させました。
12世紀中期に最盛期を迎えた時には、ほとんど全ヨーロッパに約1500の分院を有するほどになり、
修道士も2万人を数えるほどに巨大化しました。

ところが、残念なことに人間の組織というものは、大きくなればなるほど
「慎ましさ」や「清貧さ」などという立派な心構え・理念が失われていくものです。
これは今の時代の企業・会社などの組織を見てもそうですね。
中世のクリュニー修道会もやはりそうした傾向から逃れることはできませんでした。


クリュニーは、第2代院長オドー Odo(878頃‐942)の頃から、
ミサなどの典礼(儀式)を重視し、
しかもその典礼はどんどん豪華で壮麗になっていきました。
クリュニーは「清く、正しく、慎ましく」という原点に立ち戻る改革を推進したにもかかわらず、
いつの間にか、豪華で贅沢な道を再び歩むことになってしまったのです。

有名な歴史学者の堀米庸三氏は次のように述べています。

繁栄が奢侈[※しゃし・贅沢のこと]をうみ、奢侈が規律の弛緩をうむことは見やすい道理だが[…]クリュニーの繁栄は王侯のような富をもたらし、その聖堂とそのなかに営まれる生活は華麗をきわめるものとなった[…]クリュニーでは日常の儀式典礼の荘厳化に多大の努力が払われ[…] 一日の生活中、瞑想や作務にさかれる時間がまったく犠牲にされてしまった。
                
(堀米庸三『正統と異端-ヨーロッパ精神の底流』中公新書、1964年、154頁)

クリュニー修道会では儀式が豪華・壮麗なだけではありません。
それを行なう聖堂(教会建築)自体も巨大化していきました。
その到達点がゴシック大聖堂も顔負けなほど大きな
「クリュニー第3聖堂」であったことは、
第7回の授業で紹介しました。


1.シトー修道会の創立                         
さて、そうしたクリュニー修道会の繁栄に対して、それを批判する形で
再びキリスト教修道生活の原点である「清く、正しく、慎ましく」という清貧の原点を
目指そうとする修道会が作られます。
それが
「シトー修道会」(Abbaye de Cîteaux/Ordre cistercien )でした。
シトー修道会は、
1098年に、
ベネディクト会修道士モレームのロベール(Robert de Molesme, 1027-1111年)によって、
クリュニーと同じく、フランスのブルゴーニュ地方に創建されました。


シトー修道会は、「聖ベネディクトゥスの戒律」の厳格な遵守、粗衣粗食の質素な生活,
荒地の開墾作業などによる霊性の復興をめざしました。
シトー会のモットーは「祈りと労働」です。
「祈り」とともにこの「労働」というものに重きを置いた点が
クリュニー修道会との大きな違いです。

そのようにして、あくまでも祈祷を重んじ、豪華な典礼・儀式を繰り広げる
クリュニー修道会と対峙したのでした。

また壮麗・華美なクリュニー修道会とは異なり、染料を用いない白い修道服を着たことから、
シトー修道会の修道士たちは別名「白い修道士」とも呼ばれます。

シトー修道会の修道士たち(現在の様子)

1109年からの第3代修道院長ハーディング(Stephen Harding)、そして特にその後
1115年から
ベルナール(クレルヴォーのベルナールまたは聖ベルナルドゥス)が、
シトー会のクレルヴォー修道院長となる頃に、最盛期を迎えます。
クレルヴォー修道院(Abbaye de Clairvaux)は、フランス東部のシャンパーニュ地方にある
シトー修道院の分院でした。しかしベルナールの活動と名声によって、
クレルヴォーはシトー修道会の中でも最重要な修道院となり、
このベルナール院長のもとでシトー会は大きく発展したのです。


 
クレルヴォーのベルナール(Bernard de Clairvaux)     12世紀頃のフランスにおける主要なシトー会修道院


シトー修道会の発展に大いに寄与したこのクレルヴォーの聖ベルナールは、
もっぱらクリュニー修道会を念頭に置いて、
当時の修道士たちの振る舞いを次のように批判をしています。

 [かつての]聖なる教父たちが[…]今日の多くの修道院で見られるような虚栄や贅沢が勧められたり、許されたなどとはとても考えられない。私はどのようにして修道士のあいだで、食事と飲み物、衣服、寝所、乗物、建物に関するこれほどの放埒が根づきえたものかと驚いている。このようなことが熱心に喜んで行われている所が、秩序がより良く保たれていると言われ、沈黙は憂鬱とされている。[…]修道制が始まった初期の頃には、修道士がこれほどまでにだらけてしまうことを誰が思い描くことができただろう。」
(クレルヴォーのベルナルドゥス『ギョーム修道院長への弁明』杉崎泰一郎訳、上智大学中世思想研究所編『中世思想原典集成10・修道院神学』平凡社、1997年、473-475頁)


ちなみに修道院では食事の際にもワインが出されて、
修道士たちは大いにこれを楽しんでいたのですが、
これについても聖ベルナールの批判は厳しいものがあります。

 [多くの修道院では]たった一回の食事に半分ほど葡萄酒の入った杯が三、四種類出されているのを見かけるだろう。[…]大祝日に多くの修道院では蜂蜜を混ぜたり香料の粉末がふりかけられた葡萄酒を飲む慣習が見られるのは何と言ったらよいものか。[…]これらの慣習は皆、私が見ている限りでは、葡萄酒をできる限りたくさん、おいしく飲むためのものである。しかし飲んだ後血管は弾けんばかりに、頭は割れんばかりになって、食卓を立てば、もう寝る以外にすることがあるだろうか。」
(クレルヴォーのベルナルドゥス『ギョーム修道院長への弁明』杉崎泰一郎訳、上智大学中世思想研究所編『中世思想原典集成10・修道院神学』平凡社、1997年、477頁)

ただし、フランス・ブルゴーニュの高品質で有名なワインの発展に大きく寄与したのは、
他ならぬシトー修道会の修道士たちであったことは、少し皮肉なことですね(笑)。


さて、しかしこの聖ベルナールの清貧な姿勢と修道生活についての改革精神は大きな反響を呼び、
シトー修道会はどんどん発展していきます。
そして12世紀末から13世紀にかけてシトー会修道院は約1800を数え、
この時代は別名
〈シトー会の世紀〉とも呼ばれるほどになったのでした。


ワインを盗み飲みする修道士(中世の写本)



2.シトー修道会の建築                         
さて、このように豪華で贅沢なクリュニー修道会に対する批判的な精神から作られたシトー修道会
だったので、その典礼は質素・簡潔を旨としましたが、
その姿勢は、シトー修道会の修道院・教会建築にも現れています。

シトー修道院の建築は、明瞭であると同時に非常に簡潔です。
そして何よりも
装飾がきわめて質素である、というかとても少ないのです。
たとえ彫刻装飾の類いが施されていても、非常にシンプルなものが控えめに付けられているだけです。

特に前回の授業で紹介したような、ロマネスク時代のさまざまな彫刻装飾、
不思議で奇妙キテレツな彫刻、人間の顔や動物や鳥、ドラゴンや悪魔などの姿はまったくありません。

シトー修道会の発展に大いに寄与した人物として先に名前を挙げたクレルヴォーの聖ベルナールは、
こうしたいたるところに見られる
「過剰な」彫刻装飾を批判して次のように述べています。

しかし修道院(禁域)において書を読む修道士の面前にある、あのような滑稽な怪物や、驚くほど歪められた美、もしくは美しくも歪められたものは何のためなのか。そこにある汚らわしい猿、猛々しい獅子、奇怪なケンタウルス、半人半獣の怪物、斑[まだら]の虎、戦う兵士、角笛を吹き鳴らす猟師は何なのか。一つの頭に多数の胴体をもつ怪物を見たかと思えば、一つの胴体に多数の頭をもつ怪物をも見かける。こちらには蛇の尾をした四足獣がいて、あちらには獣の頭をもつ魚がいる。彼方には上半身が馬で下半身が山羊の姿をした獣が見え、此方では角のある頭をもち下半身が馬の姿をした獣を見る。一言で言って、驚くほど多様な姿をしたさまざまな像が、数多くいたるところにあるために、修道士は書物よりも大理石を読み解こうとし、神の徒を黙想するよりも、日がなこれら奇怪なものを一つ一つ愛でていたくなるだろう。おお、神よ。こんな馬鹿げたことを恥じないまでも、なぜせめて浪費を悔やまないのであろうか。
(クレルヴォーのベルナルドゥス『ギョーム修道院長への弁明』杉崎泰一郎訳、上智大学中世思想研究所編『中世思想原典集成10・修道院神学』平凡社、1997年、484頁)


以下の写真は、フランスのシトー会修道院のいくつかから、
柱頭彫刻の類いだけ(と言うか、柱頭くらいしか装飾がない)を集めてみました。
非常にシンプルで質素なデザインであることが見て取れると思います。
  
         オード県、フォンフロワド修道院(Abbaye de Fontfroide, 2018.3.12)

  
ヴァール県、ル・トロネ修道院               ドローム県、ヴァルクロワッサン修道院
(Abbaye du Thoronet, 2016.3.15)            (Abbaye de Valcroissant, 2019.9.4)


  
アヴェロン県、シルヴァネス修道院            ヴァール県、ラ・セル修道院
(Abbaye de Sylvanes, 2018.6.11)            (Abbaye de la Celle, 2017.3.15)


この最後の「ラ・セル修道院」は、南仏ヴァール県にあるもので、
正確にはシトー会の修道院ではありませんが、シトー会からかなり影響を受けた
建築であると言われています。シトー会の清貧とシンプルさを目指す精神が、
それ以外の修道院にも影響を与えた例であると言えます。



3.フォントネー修道院(Abbaye de Fontenay)             
フォントネー(フォントゥネー)修道院は、ブルゴーニュ地方コート・ドール県の
ひと気のない小さな谷間にひっそりと潜むようにして建っています。
シトー会の修道院は、人里離れた川の近くや泉のそばに建てられることが多かったのですが、
このフォントネーでも修道院の敷地のあちこちに泉が湧き出でいます。
豊かな水と森の環境の中で、このフォントネー修道院は完璧な質感を保っていると言われます。

 
                         Guide Michelin Vert, Bourgogne, p.284.

1118年にクレルヴォーのベルナルドゥス(聖ベルナール)によって設立されました。
現在の建物は1139年から建設が始まり、
1147年に教会が完成し、
ローマ教皇エウゲニウス3世によって聖別されました。
記録によれば、1153年には345人の修道士がいたと言われています。

この頃北フランスでは、パリを中心としてゴシック様式の大聖堂が建てられ始めていました。
時代はちょうどロマネスクからゴシックへと移り変わっていこうとしていたのです。
したがって、シトー修道会の建築は
後期ロマネスク様式であって、
すなわちそれまでのロマネスク様式を基調として、
部分的にゴシック的な要素が見られるのです。

一日24時間を、祈りと労働と睡眠とに均等に分けるという方針のもと、
教会、クロワトル(中庭回廊)、総会室、写本制作室、共同寝室、大食堂、鍛冶場
といった建物群の機能的で合理的な内部の設備や配置によって全体が作り上げられていました。
(ただし大食堂Réfectoireは現存しない)

フォントネー修道院(拡大図)


◆フォントネー修道院付属教会(Église abbatiale)

 
フォントネー修道院教会、西正面ファサード(2018.9.22)           ポルタイユ(扉口)部分拡大

修道院教会の西正面ファサード(↑)は、簡潔明瞭で非常に
均整が取れていて、美しい印象を与えます。
ポルタイユ(扉口)の左右に立ち上がる2つの「扶壁」(壁付柱)に交差する形で
水平に付けられたモールディングが、全体の
安定性を醸し出しています。
そのモールディングの上に2段になってロマネスク様式の半円頭形の窓が並んでいます。
ロマネスク様式の教会によく見られる鐘塔はありません。
聖ベルナールは、霊的な祈りの場である教会を、華美な彫刻や絵画などで飾ること禁じただけでなく、
塔を建てることまで避けたのでした。

ファサードに開けられたポルタイユ(扉口・出入口)の装飾は非常にシンプルです。
4重のアーキヴォルト(半円形アーチ)の中に付けられた半円形の「タンパン」は
全くの無装飾です。
そのアーキヴォルトを受け止める、扉口左右両側の円柱には
植物文様の柱頭彫刻が付けられていますが(↓)、これもまた単純なデザインであると言えます。
比較のために、南仏タラスコン近郊にあるサン=ガブリエル礼拝堂(12世紀ロマネスク様式)の
ポルタイユに付けられた柱の柱頭彫刻を一番右に並べておきます。
いかにシトー修道会のそれが簡素でシンプルなものなのかが分かると思います。
  
フォントネーの扉口側柱の柱頭彫刻(左側)    同(右側)           サン=ガブリエル礼拝堂の柱頭彫刻(2013.3.18)


教会の内部です(↓)。
広めの主身廊と、その南北両側に側廊が付いた三廊式となっています。
先ほども述べたように、ゴシックの要素が入り込んでいるので、天井のヴォールトは
ロマネスク的な完全な半円形ではなく、
ゴシック的な「尖頭形」となっています。
下の写真は入口を開け放った状態で撮影しているのでまだ明るいですが、
実際はもっと暗いです。

フォントネー修道院教会内部(2018.9.22)

内部にはおどろくほど装飾の類いがありません。
聖堂内に絵画や壁画の類いは全くありません。
南北両側のアーケード(アーチの連続)を受ける柱の柱頭にやはりシンプルな彫刻が少し
施されているだけです(↓)。
まるで線刻の図形のような植物文様です。
  

身廊の一番奥は、内陣・後陣となります。
ロマネスク様式の教会建築では、通常は半円形の後陣となりますが、
ここフォントネーでは、他の多くのシトー修道会のそれと同じように、
半円形ではなく「平面」です。これを
「ベルナール式平面」と呼びます。
下の写真は、左側が内部の様子、右側が外側の様子です。
 
フォントネー修道院教会後陣・内部              後陣・外部

平面式の後陣に開けられた窓は6つで、そのプロポーションが美しいと言われています。
下段の3つは半円頭形、上段の3つは尖頭形です。
これらの窓にはステンドグラスがはめられていますが、
これも大変に地味でシンプルなものになっています(↓)。
これがゴシックの大聖堂になると、赤や青や黄色などさまざまな色で華麗に美しくなります。


フォントネー修道院の教会には、華麗さや豪華さは微塵もありません。
ただただ何もない簡素な祈りの空間があるだけです。
しかしその質素で何もない空間から、
静かで深い聖なる信仰の世界が生み出されます。
まるで日本の鎌倉仏教の幽玄の世界、あるいは茶の湯の世界に、
何か通じるものがあるのかも知れません。

これが、次の時代のゴシック大聖堂になると、装飾や豪華さ、
輝くばかりの美の世界が繰り広げられます。
そうした輝かしい美から、神の真理が人間に伝えられるわけです。
シトー修道会が探し求めた信仰の境地とは真逆の世界です。


教会に隣接して、クロワトル(列柱による中庭回廊)があります。
36メートル×38メートルの四角形で、ここは修道士たちの祈りと冥想の場所でした。
クロワトルを取り囲むアーケードはすべてロマネスク様式の半円形アーチとなっています。

フォントネー修道院のクロワトル(中庭回廊)

 

柱の柱頭彫刻はやはり非常にシンプルなものばかりです。線刻の図形のような植物文様です(↑)。

このクロワトルに面して、修道士たちの
「総会室」(Salle capitulaire)
そしてそれに続けて
「写本制作室」(Scriptorium)があります。
「総会室」別名「参事会室」は、修道士たちの集会・会議室ですが、
何でも多数決で決めていたわけではありません。
絶対的な決定権・命令権はもちろんすべて修道院長が握っていました。

「写本制作室」は、印刷技術がまだない時代、本や文献、典礼本などはすべて
修道士たちが手で筆写していました。非常に時間と根気のいる仕事です。
ウンベルト・エーコの
『薔薇の名前』(1980年)は、この写本制作をする修道士が
重要な役割を果たすミステリー小説です。
1986年に映画化もされました。主演はショーン・コネリーです。
残念なことに、つい先日10月末に90歳で亡くなった名優です。

さて、この2つの部屋の天井には、床に立つ柱の上にまるで「あばら骨」のような
「リブ」が広がって支えています。こうした天井を
「リブ・ヴォールト」と呼びますが、
これもゴシック様式の建築の特徴の1つです。
 
フォントネーの「総会室」                  「写本制作室」


最後に、この「総会室」と「写本制作室」の建物の2階にある
「修道士たちの寝室」(Dortoir)です。
大きな共同寝室で、天井は木製で15世紀後半の見事なものです。
ひっくり返った船底を連想させます(船底天井)。
シトー修道会が守った聖ベネディクトゥス戒律では、修道士たちは個室ではなく、
皆が同じ部屋で寝ることになっていました。まるで軍隊の兵舎みたいですね。
ここで40~50人の修道士が寝ました。
寝床はベッドではなく、わら布団を床に直接敷き、隣とは低くて簡単な仕切りで区切った
非常に簡素なものでした。

修道士たちの共同寝室(2018.9.22)


4.その後のシトー修道会                       

1153年にクレルヴォーの聖ベルナールが死ぬと、徐々にシトー会の衰退が始まります。
信者、王侯貴族などから土地や財産の多大な寄進(寄付)を受けて豊かになり、
数多くの分院を傘下に収めて巨大化したシトー修道会は、
もはやほとんどクリュニー修道会を非難しなくなってしまいました。
質素・清貧を目指してクリュニーを批判したシトー会でしたが、
やはり同じ道をたどってしまったわけです。

百年戦争(14~15世紀)と宗教戦争(16世紀)によって荒廃します。
そして18世紀後半のフランス革命期にはフランスから姿を消してしまいます。

今日取り上げたフォントネー修道院も、フランス革命の後、国有財産として売り払われてしまい、
製紙工場として使用されました。
1820年、気球の発明で有名なモンゴルフィエ一族が買い取り、
さらに1906年にリヨンの銀行家・政治家であるエドゥアール・エイナール(Édouard Aynard)
の手に渡り、彼の手によって修復工事を行なわれて現在に至っています。
なので、フォントネー修道院は厳密にはエイナール家の私有ですが、
もちろん歴史的文化財として一般の観光客に公開されています。

 
製紙工場になっていたフォントネー修道院(煙突が見える)   荒れ放題の「総会室」



フランス革命(1789年)のあと、亡命修道士がフランス国内に戻って復興、
現在のシトー会が作られました。
このとき、フランス・ノルマンディー地方のトラップ修道院の厳格な規律に従うグループは
「厳律シトー会」(トラピスト会)となりました。
現在は、厳律シトー会は独立した修道会となっており(寛律)シトー会と分かれています。

「厳律シトー会」は英語では« Order of Cistercians of the Strict Observance»、
フランス語では« Ordre cistercien de la Stricte Observance» と言います。
聖ベネディクトゥスの戒律を厳格に守り「祈りと労働」をモットーに修道生活を実践しています。
日本では函館郊外(北斗市)にある
「トラピスト修道院」がこの厳律シトー会に属しています。
ここで修道士たちによって作られているバターとかトラピストクッキーとかが有名ですね。

実は私は昔、大学院生の頃、ちょっとしたつてがあって、寒い冬に北海道旅行をした際に
このトラピスト修道院に宿泊するという経験をしました。
朝の4時だか5時だかから起きて、修道士たちのミサに参加しました。
冬のまだ暗い早朝の聖堂に響き渡る、男声合唱の聖歌が印象的な思い出です。
(ちなみに私はクリスチャンではありません)

このトラピスト修道院では、現在でも修道院敷地内売店横の当別教会において、
毎日曜日午前 8:45 からミサが行われていて、クリスチャンでなくても誰でも参加できるそうです。
男子修道院ですが、このミサは女性でも大丈夫です。
司式は修道院の神父によって行われ、修道院内で修道士が行っているミサと同じ雰囲気だそうです。
もしも皆さんも北海道旅行に行ったら、一度はカトリックの修道院のミサというものを
経験されてはどうでしょうか。

トラピスト修道院公式サイト

函館市公式観光情報

ちょうど昨日の「時事通信社」のWEBニュースに
「光で浮かび上がる修道院~北海道北斗市トラピスト修道院」と題した記事が出ていました。
12月24日までの16~20時に夜のライトアップが行われるそうです。



今年はコロナで始まり、コロナで終わりました。
本当に大変な1年であったと思います。
この北海道のトラピスト修道院の美しいイルミネーションが、
どうかこの災いを振り払って消してしまってくれるように願わずにはおれません。
学生の皆さんも、どうか良いクリスマスと良い年を迎えて下さい。

来年年明けのアップロードは
1月12日(火)になります。
くれぐれも感染には気をつけて、健康で健やかな年越しをされますように。



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【参考文献】
饗庭孝男『世界歴史の旅/フランス・ロマネスク』山川出版社、1999年。
饗庭孝男『ヨーロッパ古寺巡礼』新潮社、1995年。
馬杉宗夫『ロマネスクの美術』八坂書房、2001年。
朝倉文市『修道院―禁欲と観想の中世』講談社現代新書、1995年
朝倉文市『修道院にみるヨーロッパの心』山川出版社、1996年
佐藤彰一『禁欲のヨーロッパ-修道院の起源』中公新書、2014年
佐藤彰一『贖罪のヨーロッパ-中世修道院の祈りと書物』中公新書、2016年
杉崎泰一郎『12世紀の修道院と社会』原書房、2005年
杉崎泰一郎『修道院の歴史:聖アントニオスからイエズス会まで』創元社、2015年
関口武彦『クリュニー修道制の研究』南窓社、2005年
長塚安司責任編集『世界美術大全集 西洋編8・ロマネスク』小学館、1996年。
西田雅嗣『シトー会建築のプロポーション』中央公論美術出版、2006年。
堀米庸三『正統と異端-ヨーロッパ精神の底流』中公新書、1964年
前川道郎『聖なる空間をめぐる フランス中世の聖堂』学芸出版社、1998年。
ペーター・ディンツェルバッハー『修道院文化史事典』八坂書房、2014年
レオン・プレスイール『シトー会(「知の再発見」双書155) 』杉崎泰一郎監修、遠藤ゆかり訳、
                                創元社、2012年。
DELAMARRE, Barbara, Architecture des Églises Romanes, Éditions Ouest-France, 2015.
DROSTE, Thorsten, La France romane, Les Éditions Arthaud, 1990.
Guide Michelin Vert, Bourgogne.
HUREL, Odon, et RICHE, Denyse, Cluny:De l'abbaye à l'ordre clunisien, Xe-XVIIIe siècle, Armand Colin, 2010.
OURSEL, Raymond, Bourgogne romane, Zodiaque, 1991.
PACAULT, Marcel, L'Ordre de Cluny, Fayard, 1986.
SAPIN, Christian, et al., Bourgogne romane, Faton, 2006.
SARTIAUX, Frédéric, Abbaye de Fontenay, Ouest France, 2009.
Les Dossiers d''Archéologie, No.229, 1997-12・1998-01, Cîteaux, L'épopée cistercienne.
Les Dossiers d''Archéologie, No.269, 2001-12 et 2002-01, Cluny ou la puissance des moines.
Les Dossiers d''Archéologie, No.340, 2010-07 et 08, Abbayes cisterciennes.
HISTOIRE Antique & Medievale, 2015-06. HS-No.43, Clairvaux, l'aventure cistercienne

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