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ヨーロッパ・アメリカ文明特殊講義D/ヨーロッパ文明特殊講義D

第12回/ゴシックの誕生・大聖堂の世界(後半)     
前半では、ロマネスクの後に登場したゴシック様式の大聖堂の特徴について説明しました。
後半では、そうしたゴシック様式の大聖堂の、一番最初のものである
サン=ドニ大聖堂(サン=ドニ修道院付属聖堂)について取り上げます。
サン=ドニは、ゴシックが誕生した聖堂なのです。


8.サン=ドニ修道院について                    
ゴシック最初の聖堂が建てられたサン=ドニ修道院は、
パリの中心であるシテ島のノートル=ダム大聖堂から直線距離にして北へ約10キロの郊外にあります。
パリの街を取り囲む環状道路の外側約4キロです。シテ島からメトロ(地下鉄)だと約30分です。
下の地図の赤い矢印の所です。
近くには1998年にサッカーのワールドカップが行われた
「サン=ドニ競技場」(Stade de France)があることでも知られています。


サン=ドニ修道院教会は、長いことサン=ドニ修道院バジリカ教会と呼ばれ、
ローマ・カトリック教会の中でも特別な地位が与えられてきました。
フランス国王の多くがこの教会に埋葬されています。
フランス革命でギロチンにかけられたルイ16世とマリー・アントワネットの墓もここにあります。
1966年には「司教座」が置かれることになり、
今では「サン=ドニ大聖堂」(サン=ドニ司教座聖堂)となっています。

伝説によると、ルテチア(古代のパリ)最初の司教であった
聖ディオニシウス(サン=ドニ)は、
ローマ帝国によるキリスト教迫害によって、西暦250年頃、パリのモンマルトルで斬首されました。
彼は切り落とされた自分の頭を両手で持って歩き始め、5キロほど北へ歩いて、
今のサン=ドニあたりで倒れました。そしてそこにサン=ドニの墓が作られ、修道院が建てられました。
切り落とされた自分の首を持つ聖ドニは、パリのノートル=ダム大聖堂の
西正面ファサードの彫刻にも見ることができます。
  
切られた自分の首を持って歩く聖ドニ             パリのノートル=ダム大聖堂西ファサードの彫刻

サン=ドニの地には、475年に最初の大教会が建てられました。
630年には国王ダゴベール1世が再建、修道士たちが住みました。

さて時代は下って12世紀のこと、サン=ドニ修道院の院長は
シュジェール(Suger、1081-1151/スュジェとも発音)という人物でした。
ラテン語名ではスゲリウスと言います。
このシュジェールこそが、ゴシック建築を生み出した立役者なのです。

彼は若い頃、この修道院で学んだのですが、国王ルイ6世も若い時にここで学んでおり、
この二人は学友でした。
修道院学友時代はあまり親しい仲ではなかったなどと言われることもありますが、
その後は国王となったルイ6世の信任が厚く、シュジェールはルイ6世の側近となりました。
シュジェールはルイ6世の息子であるルイ7世にも仕え、
ルイ7世が第2回十字軍に参加して遠征した時には、
国王不在のフランスを統治するために摂政になっています。
またその遠征のための軍資金の借金などにも奔走したりしています。
ルイ7世は、後にシュジェールに「祖国の父」の称号を与えています。
シュジェールは、1150年末に病に倒れ、1151年1月13日に亡くなりました。
 
シュジェール、サン=ドニ大聖堂のステンドグラス(2015.9.1)

さてシュジェールは、1136年(または1135年)から、
それまでの古いサン=ドニ修道院教会を、新しくて大きなものに建て替えようと決めます。
1140年頃までファサード(西正面)と身廊を、
そして1140年~1144年に内陣と地下クリプトを再建しました。
全体が完成し、1144年に献堂されました。
「献堂」とは、完成した教会を、正式に神聖なる聖堂として神に捧げる儀式のことです。
この「献堂」式を行うと、単なる建物から、聖なる力を持つ神の「家」となるわけです。
そのようなわけで、新しいサン=ドニ修道院教会が完成した
1144年はゴシック誕生の年と言われるのです。

なおその後、13世紀には尖塔が付け加えられ、トランセプトと身廊が作り直されました。
1789年のフランス革命によって略奪と破壊の対象となりました。
そこに並んでいる歴代フランス国王の墓は暴かれて略奪されました。
皇帝ナポレオン1世の時に修復が開始され、19世紀(1858年~)から
ヴィオレ・ル・デュックによって本格的な修復作業が進められました。

  
フランスの歴史・考古学雑誌(サン=ドニ大聖堂特集号)の表紙   サン=ドニ大聖堂西ファサード(2015.9.1)


9.サン=ドニ大聖堂(サン=ドニ修道院教会)内陣           
大聖堂の内部は、主身廊の南北に側廊が並ぶ3廊式で、ピア(束ね柱)が左右に並び、
その上にはゴシック様式の大きな尖頭アーチが並ぶアーケードとなっています。
さらにその上は小アーチが連なるトリフォリウム(壁内通路を形作る小アーチの列)となり、
一番上にはステンドグラスをはめたランセットと小さなバラ窓が組み合わされた
高窓がずらりと並んでいます。
ピエール・ド・モントルイユによる建築で、
「秩序ある壁面構成と4分ヴォールトの完璧な統一」などと言われます。
トリフォリウムと高窓は「光の壁」と化しています。
これは「地上における神の世界の表現」となっています。
   
ミシュラン・グリーンガイド『パリ周辺』     サン=ドニ大聖堂内部(2005.3.30)


現在のサン=ドニ大聖堂のうち、ゴシックが誕生した際のオリジナルの部分は、
西正面(ファサード)とそれに続くナルテクス(玄関間)、そして東端(一番奥)の内陣部分です。
そのうち誕生したばかりのゴシックの要素を最も感じることができるのは
内陣です。

半円形の平面プランの内陣には、中央に祭壇があり、
大きな円柱と小円柱を組み合わせた10本のピア(束ね柱)が
半円形の形に並んで二重に祭壇の周りを囲んでいます。
それらのピアの上には、高さのある典型的な尖頭アーチが架かり、
さらにその上にはトリフォリウムが巡ります。
目に入ってくるのは、縦に立ち上がる垂直線の列です。
サン=ドニの内陣(2015.9.1)

こうした「上へ上へ」と上昇して行こうとする建築的な意志は、
ゴシック様式の特徴の1つです。
シュジェール自身がこれについて、自分の書いた著作である
『サン・ドニ修道院長シュジェールの統治記』において次のように書き残しています。

私は、神の家の飾りへの愛から、時として多彩な宝石の美が、私を外界への配慮から引離し、さらに真摯な観想が、物質的なものから非物質的なものに移行させつつ、多様な聖なる諸徳を追究するように説得した時に、私は私があたかも何処かこの地の外の他の空間にいる思いがした。この空間は、ことごとく地の汚泥の中にあるでもなく、ことごとく天の清浄の中に存在するでもなく、この下の世からかの上の世へと、神が輿え給うて、上昇の方法によって移行させられ得るのである。
(「サン・ドニ修道院長シュジェールの統治記」、森洋訳『サン・ドニ修道院長シュジェール』中央公論美術出版、2002年、304頁)


また内陣を巡る二重の円柱の列の間、つまり内側の列と外側の列の間の半円形の回廊を
「後陣回廊」または「周歩廊」と言いますが、この回廊の天井(ヴォールト)には、
ゴシックの発明である「交差リブ」が架かっています。
ゴシックの教会建築で多用される「交差リブ・ヴォールト」の最初の例がここに見られるのです。

サン=ドニ内陣と後陣回廊(2015.9.1)

 

ヴォールトを支える「あばら骨」(ろっ骨)のようなこの「リブ」について、
やはりシュジェール自身は、建設工事中に嵐の被害にあっても「リブ」はしっかりとしていたと
次のように書いています。

新規拡張作業の柱頭とその上に載るアーチは、その頂点の高さに達しようととていたが、主アーチは各個に積み上げられて、未だにヴォールトの塊に接合されていなかった。その時に突然恐ろしい、殆んど耐え難い嵐が来襲し、雲の塊はわき上がり、雨は急流のように降り、風は極めて激しく吹きつけた。[……]嵐は、多くの場所に、察するところ最も強固な建造物に、破壊という多大な不都合をもたらしたが[……]揺らぐ高みに孤立した新造のアーチには、何ら不都合をももたらし得なかったのである。」
(シュジェール「サン・ドニ教会堂献堂に関する覚え書き」、森洋訳『サン・ドニ修道院長シュジェール』中央公論美術出版、2002年、213-214頁)


サン=ドニ内陣で現れたこのリブは、まだ太くて、長さも短いものです。
そして「交差」してはいるが、正確に「直交」しているのではなく、いびつな形で交っています。
しかしまだ生まれたばかりのリブ・ヴォールトは、
ゴシックの生命力を力強く表現しているかのようです。

酒井健氏は、柱頭の起点からヴォールトへと広がるこの「リブ」を
まるで森の樹木のようだと言っています。

ゴシック大聖堂のなかへ入ってみよう。そこは深い森の世界である。身廊から内陣にかけて左右に立ち並ぶ高さ20メートル有余の石の柱たちは、大開墾運動のなかで消えつつあったブナ、ナラ、カシワなどの高木の形象化にほかならない。そして石柱頂きの起きょう点から天井にかけて放射状に伸びる交差リブや横断アーチの曲線は、それら高木のしなやかな枝の流れを表している。[…]ゴシックの樹葉の茂り方は[…]北フランスの森の深さとその旺盛な生命力を反映しているのである。」
           
(酒井健『ゴシックとは何か 大聖堂の精神史』講談社現代新書、2000年、38-39頁)


また、キリスト教芸術の大家であるアンリ・フォションは
こうした「リブ」(フランス語で「オジーヴ」)の使用について、
それを初めて用いたシュジェールの独創性を讃えて次のように述べています。
フォションによると、サン=ドニ聖堂は単なる「傑作」にとどまらず、
中世文明史におけるきわめて重要な出来事だと言うのです。

サン=ドニはオジーヴ[リヴ]の諸機能から真に建築的な方策を引きだしえた優れた才能の人物の権威と独創性とをうかがわせる。 […]ナルテックス、とくに内陣は大きな意味を持っている。オジーヴ[リヴ]の交点にある要石から五本目の枝リブが二つの窓の間にある持ち送りの上に降りてくるのである。壁体を取り去って円柱群に置きかえたのは、大型焼絵ガラス窓がよく見えるようにするのが目的だったようであり、またその大型焼絵ガラス窓は、付加的オジーブの使用により数を倍増することが出来たのである。このようにして、長いあいだ壁体によって制約されていた採光問題は、構造の取扱い方のうちに最も巧みな解決法の一つを見出す。この解決法の各地方への伝播の素早さは、この解決法の重要性とともにモデルとされたサン=ドニの教会堂の影響力をも証明している。この解決法が古典的規範となったのである。
サン=ドニ修道院付属教会堂は、
単にひとつの傑作であるというにとどまらない。それは、中世文明史上きわめて重要なひとつの出来事なのである。
(アンリ・フォシヨン『西欧の芸術2・ゴシック(上)』神沢栄三ほか訳、鹿島出版会、1976年、21-22頁。訳文一部改変。)


最後に、
ステンドグラスについて。
このサン=ドニの内陣は、ステンドグラスのはめられた窓によって囲まれています。
ゴシックでは、なるべく「壁」をなくして、窓を大きく開けます。
そしてそこにステンドグラスをはめます。
サン=ドニの場合も、シュジェールはフルカラーの美しいステンドグラスを並べました。

色のついたガラスという「物質的なもの」を通して、「非物質的なもの」である神聖な神の世界が
人間に伝えられること。
ステンドグラスや金銀宝飾といった「物質的な光」が、いかに「神的な光」につながっていくか、
それをシュジェールは追求したのです。
感覚を通して精神を求めること。
シュジェールが切り開いたゴシック的な世界では、感覚的な「美」を通してこそ、
神の真理や信仰の感動は、人間に与えられるのです。

1144年、サン=ドニ修道院教会の新しく完成した内陣の献堂式に関する詩文に、
シュジェールは次のように書き残したのでした。


 より後の新しい部分が前の部分に接合された時、
 バシリカ聖堂は、その中央が
明るくなって輝いた
 明るさは明るいものと結合して輝き、
 また
新しい光が溢れて、建物が輝く。
 この高貴な建物は、我々の時に拡張されてあり、
 それがなされた時に導いたのは、私シュジュールであった。
            (1144年、内陣献堂式に関する詩文、森洋訳『サン・ドニ修道院長シュジェール』
                        中央公論美術出版、2002年、282頁。訳文一部改変。)


前川道郎氏は、ゴシック建築がもたらしたのは、単に「フライング・バットレス」や
「リブ・ヴォールト」、そして「尖頭アーチ」といった
建築上の技術的革新だけではないと言います。
ゴシックの本質とは、聖堂に大きく開けられた窓から射し込んでくる、
美しい光に満ちた空間なのだと言うのです。

シュジェのサン・ドニ、とりわけその内陣が献堂された1144年がゴシック誕生の年とされるのは、新しい「光の空間」の創造においてであった。ゴシックを生み出した業は、組積造であるはずの石積みの骨組構造化と、ステンドグラスによる光の壁の創出であった。
       
(前川道郎『聖なる空間をめぐる -フランス中世の聖堂』学芸出版社、1998年、138頁)



ステンドグラスを通してサン=ドニ大聖堂内陣に射し込む光(2005.3.30)
写っているのは、フランスに留学したヨーロッパ文明学科の学生の一人です。



さて、ゴシックの始まりであるサン=ドニ修道院教会内陣部のステンドグラスは、
残念ながら、12世紀のオリジナルのものは少ないのですが、
修復・復元されたステンドグラスの中に、シュジェール自身の姿が残されています。

ひとつは上で紹介したもの。
もうひとつは「受胎告知」のステンドグラスで、処女マリアと大天使ガブリエルの
足元にすがりつくように(あるいは祈り捧げるように)
シュジェール自身の姿があります。
「スゲリウス・アバス」(大修道院長シュジェール)との文字も見られます。
ゴシックの創始者として偉業をなしとげた自分の姿を、後世にしっかりと伝えたわけですね。



本日は以上です。
次回は、最終回としてパリのノートル=ダム大聖堂を取り上げます。
1月19日(火)の午前中にアップロードします。
※なお次回は、
最終コメントの提出の告知もあります。



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【参考文献】
『世界美術大全集 西洋編9/ゴシック1 』飯田喜四郎・黒江光彦編集、小学館、1995年。
『世界美術大全集 西洋編10/ゴシック2 』佐々木英也・冨永良子編集、小学館、1994年。
饗庭孝男『ヨーロッパ古寺巡礼』新潮社、1995年。
木俣元一・小池寿子『西洋美術の歴史3 中世II - ロマネスクとゴシックの宇宙』
                             中央公論新社、2017年。
酒井健『ゴシックとは何か-大聖堂の精神史』ちくま学芸文庫、2006年。
佐藤達生・木俣元一『図説 大聖堂物語―ゴシックの建築と美術(ふくろうの本)』
                         河出書房新社、2000年。
森洋訳『サン・ドニ修道院長シュジェール』中央公論美術出版、2002年。
森田慶一『西洋建築入門』東海大学出版会、1971年。
前川道郎『聖なる空間をめぐる フランス中世の聖堂』学芸出版社、1998年。

ウィルヘルム ヴォリンガー『ゴシック美術形式論』中野勇訳、文藝春秋社、2016年。
O.フォン・ジムソン『ゴシックの大聖堂―ゴシック建築の起源と中世の秩序概念』
                        前川道郎訳、みすず書房、1985年。
アンリ・フォシヨン『西欧の芸術2・ゴシック(上)』
                   神沢栄三ほか訳、鹿島出版会、1976年。
クリス ブルックス『岩波 世界の美術/ゴシック・リヴァイヴァル』
                  鈴木博之・豊口真衣子訳、岩波書店、2003年。
エミール・マール『ゴシックの図像学〈上・下〉』田中仁彦ほか訳、国書刊行会、1998年。
ジャック・ル ゴフ『中世西欧文明』桐村泰次訳、論創社、2007年。
Dossiers d'Archéologie, no.297, 2004, « Saimt-Denis de Ste Geneviève à Suger».
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