オンライン授業
ヨーロッパ・アメリカ文明特殊講義D/ヨーロッパ文明特殊講義D
第13回/パリのノートル=ダム大聖堂(前半)
前回は、ゴシック様式の教会建築について説明しました。
今回は「特殊講義D」最終回として、そのゴシック大聖堂の最も有名で
もっともすばらしいものとされている
フランス・パリのノートル=ダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)を取り上げます。
「ゴシック様式」については前回の授業で詳しく説明しましたので、それを見て下さい。
「大聖堂」は、単に「大きな聖堂」という意味ではなく、
司教がいる聖堂すなわち「司教座聖堂」(カテドラル)のことである、
ということも前回触れておきました。
「ノートル=ダム」(Notre-Dame)というのはフランス語で、
「ノートル」は「われわれの」、「ダム」は「婦人」と言う意味で、
「ノートル=ダム」は直訳すると「私たちのご婦人」という意味ですが、
それはすなわちイエス・キリストの母である「聖母マリア」のことです。
聖母マリアに捧げられた「ノートル=ダム」と名の付いた教会、礼拝堂、大聖堂は、
パリだけではなくフランス各地にたくさんあります。
地方の田舎の村や山奥の古びた小さな教会も、しばしばノートル=ダム教会と
名付けられていたりします。
大きな都市の大聖堂などで有名なところでは、例えば「シャルトル大聖堂」が有名です。
これも正確には
「シャルトルのノートル=ダム大聖堂」(Cathédrale Notre-Dame de Chartres)です。
しかし一般には、そしてとりわけ外国人観光客などにとっては
「ノートル=ダム大聖堂」というと、パリのノートル=ダムを指します。


『週刊朝日百科/世界の100都市・パリ』より
パリのノートル=ダム大聖堂は、パリを東西に横切るセーヌ川のシテ島(Île de la Cité)という
中州の島にあります。古代の最も古い時期のパリの街はこのシテ島でした。
ノートル=ダム大聖堂は文字通りパリの中心、いやフランスの中心に建っています。
大聖堂のすぐ前には、フランス各地への距離を測る際の基準点があります。

シテ島とノートル=ダム大聖堂 ノートル=ダム大聖堂の西ファサード(2001.8.14)
1.ノートル=ダム大聖堂の歴史概略
そもそもパリがフランスの首都として定着したのは、10世紀頃、
すなわち987年、ユーグ・カペー(Hugues Capet)の時と言われています。
彼はフランク王国の王家であるカロリング家が断絶したのを受けてフランス王国の国王となりました。
それまでは、国王は北フランスのあちこちを転々と移動していたので
はっきりとした「首都」がなかったのです。
カペー王家が国王を受け継いでいく中で、彼らの宮廷はパリに定着しました。
ゴシック様式が始まったカペー王家5代目のルイ6世肥満王(在位1108-1137)の時代には、
国王と言っても王権が実質的に支配していたのは、
まだパリ周辺のイル=ド=フランスと言われる地域だけでした。
それ以外のフランスのほとんどの地方は、
形の上は国王に臣従をしている大小の封建領主たち(公や伯たち)が支配していました。
中には国王よりも広大な領土を支配する公や伯たちもいました。
6代目の国王ルイ7世(在位1137-1180)には少しずつ王権の強化が進行していきます。
ノートル=ダム大聖堂の建設が開始されるのは、ちょうどこのルイ7世の時代のことでした。
カペー王家7代目のフィリップ2世(フィリップ・オーギュスト、在位1180-1223)になると、
国王は大小の封建領主たちの力を削ぎ、ますます中央集権を進めたことで、
国王権力もかなり強化され、王権の支配地も広がっていきます。
ちょうどその時代に、ルーブル宮が建設され(1200年頃)、
またパリ大学(ソルボンヌ)が創設されます(1215年)。
9代目のルイ9世(サン・ルイ/聖王ルイ、在位1226-1270)の時代には、
フランスはヨーロッパで最も強力な国になります。
首都であるパリはヨーロッパで最大の人口(約30万)を持つようになっていました。
前回の授業の「前半」の最後に紹介した「サント=シャペル」が完成したのは
ルイ9世の治世の時のことでした(建設は1242-1248)。
ゴシック様式の大聖堂がパリを中心とした地域に次々と建てられていくのは、
カペー王家第5代目のルイ6世の時代から第7代目のフィリップ2世の時代にかけてのことで、
ちょうどフランス王権がどんどんと強大になっていくプロセスと重なっています。
国王の権力、教会の権威、そして巨大な聖堂建設を可能にした「民」の経済活動の発展、
この3つの要素がゴシック大聖堂の建設を可能にしたと言われています。
ルイ7世 フィリップ2世 ルイ9世
◆ノートル=ダム大聖堂の建設
パリのノートル=ダム大聖堂の建設が開始されたのは、1163年のことでした。
パリ司教モーリス・ド・シュリーが古い大聖堂を取り壊して、
ゴシック様式による新しい大聖堂建設を決めました。
1218年、ノートル=ダムの内部が完成、
1245年、二つの塔が完成、
1345年、大聖堂全体が完成しました。
古い大聖堂を取り壊しながら新しいノートル=ダム大聖堂を建設。 西の塔の建設。
(SANDRON, Dany, & TALLON, Andrew, Notre-Dame de Paris. Neuf siècles d'histoire)
建設開始から完成までおよそ180年近くかかりました。
出来上がったノートル=ダム大聖堂の大きさは、
東西の全長130m、南北の幅48m、身廊部の高さ35m、西の塔の高さは69mでした。
およそ6500人を収容できる大きなものでした。。
◆さまざまな用途
ノートルダム大聖堂の用途は、まず何よりも「ミサ」などキリスト教の
さまざまな儀式ための場でした。
また王侯貴族や司教などの高位聖職者たちの墓所でもありました。
身分が高い者は聖堂内に埋葬されました。これは18世紀まで続きました。
またいろいろな政治的儀式にも利用されました。例えば以下のようなものがあります。
1185年、第3回十字軍出陣式
1302年、フィリップ4世(美麗王)がノートルダム大聖堂で最初の三部会を開催。
1430年、イギリス王ヘンリー4世の戴冠式
1455年、ジャンヌ・ダルクの名誉回復裁判開始
1572年、アンリ・ド・ナヴァール(後のアンリ4世)の結婚式
1804年、皇帝ナポレオンの戴冠式
1944年、第2次世界大戦の時のパリ解放を祝うミサ
1970年、シャルル・ド・ゴール追悼ミサ
◆修復の歩み
17世紀以降、ノートル=ダム大聖堂は何度も修復・改装の手が加えられています。
子供の出来なかったルイ13世は、子宝祈願を行い、内陣の改装工事を開始。
1638年に念願の子供が出来ました。すなわち後の国王ルイ14世です。
言わずと知れた、あの絶対君主・太陽王です。
そのルイ14世は、内陣の改装工事を引き継ぎました。
内陣のピエタ像(死んで十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリア像)と、
ルイ14世像はコワズヴォー作、ルイ13世像はクストゥー作です。
内陣の聖職者席もこの時代のものです。

内陣。左からルイ14世像、ピエタ、ルイ13世像(2001.8.16)
1789年に起こったフランス革命は、封建的な王政を否定・攻撃しただけではありません。
王政と表裏一体の関係にあったキリスト教会も攻撃と破壊の対象にされました。
ノートル=ダム大聖堂もやはりそのターゲットになり、損傷が進みました。
聖堂が持っていた宝物は略奪され、彫像類も破壊されました。
聖堂内部の墓も暴かれて埋葬者の遺骸や副葬品が略奪されました。
それ以来、今日まで聖堂内部に墓を作ることは禁じられています。
また革命後しばらくは大聖堂での宗教儀式が禁止されました。
これは皇帝ナポレオンの戴冠で復活しています(1804年12月2日)。
聖堂自体もやはりその時から修復が進められました。
最も最近では、みなさんもニュースで知っているように、
2019年4月15日、恐らくは修復工事現場からの失火が原因で、
身廊・トランセプトの屋根と尖頭が焼け落ちました。
聖堂全体の大規模な崩壊は免れ、再建工事が進められています。
さまざまな再建プランが検討されたようですが、結局、
もとの姿のままに再建されることになりました。
2.ノートル=ダム大聖堂の建築/西ファサード
「ファサード」とは、ある方角から見た建物の全体的外観のことです。
ゴシックの大聖堂では、通常は西側の正面の外観である「西ファサード」が重要視されます。
(後陣側の外観のことを「東ファサード」とか「後陣ファサード」とは言いません。)
そしてこの「西ファサード」にメインの扉口(ポルタイユ)が開いています。
塔がそびえ立つのも、西ファサードにおいてです。
以下、パリのノートル=ダム大聖堂の西ファサードの特徴を見ていきます。
◆全体的に安定感がある。
パリのノートル=ダム大聖堂の西ファサードは、二つの双塔が尖塔ではなく、
矩形[くけい・塔頂部が平ら]で終わっているので、上昇感がなく、地上的な安定感があります。
横に連なる「諸王のギャルリー」(Galerie des Rois)の上部の水平線と、双塔の基部の水平線が、
全体をほぼ等しく三等分していて、これが大きく水平的安定感に寄与しています。
中央のバラ窓を頂点とし、下に並ぶ左右の扉口の底辺の両端を結ぶ「三角形」が、
安定感を生んでいます。
扉口を縦に三分する垂直的なバットレス(扶壁)は、水平的分割線を分断せず、
水平線と垂直線の間の調和と均衡を生み出しています。
ノートル=ダム大聖堂の水平的安定感は、同じゴシック大聖堂でも、
例えばケルンの大聖堂の圧倒的な垂直的上昇感(前回の授業に写真があります)
とは異なっています。

◆2つの塔
2つとも高さは地上69mです。
一番上の階の開口部は狭くて高い(16m以上)で軽やかですが、威厳があると言われます。
南塔の中に吊された大鐘は13トンの重量があります。
言い伝えによれば、17世紀にこの鐘を鋳造したときに、
パリの貴婦人や一般の女性たちがこぞって宝石や金銀の装身具を、
溶けたブロンズの中に投げ込んだため、非常に澄んだ響きの鐘であると言われます。
鐘は重要な行事の時に鳴らされます。

◆グランド・ギャルリー(Grande Galerie)と怪物たち・ガーグイユ
「グランド・ギャルリー」は左右(南北)の2つの塔の基礎部分をつなぐ役割をしています。
上階の欄干部分には、怪獣や悪魔などの彫像やガーグイユ(水落とし/雨樋)があります。
ただし、これらはとても小さくて、下の広場からはよく見えません。
これらの怪物たちは、フランス革命の際に、いったん破壊されました。
1843年から建築家のラシュスとヴィオレ・ル・デュックが修復・復元しました。
怪物たちの像は、「神の国」たる大聖堂を悪霊の侵入から守っているとか、
外を行く人々に、怪物が象徴する罪の恐ろしさを警告しているのだとか言われます。
またガーグイユ(gargouille)は、雨水が石と石の間の接着剤である漆喰を
溶かしてしまうので、雨水をできるだけ壁面から遠くへ落とす役割があります。
「神の国」たる聖堂から水を吐き出すことで、
悪霊を外部に吐き出しているのだとも言われます。


グランド・ギャルリーに並ぶ「怪物」たち(2003.2.27)

雨水を下に落とすための「ガーグイユ」。細長い怪物の形をしている。
◆バラ窓の階
西ファサードを構成する垂直性と水平性の中心に円を配することによって調和を表します。
西ファサードの「バラ窓」は直径がおよそ10mあります。
あたかも聖母子像の光輪(頭の後ろで輝く聖なる光の輪)のようです。
中心部には、聖母マリアが幼児キリストを抱いています。
中心部から放射する12本の柱は、キリストの弟子である十二使徒を表します。
救世主キリストの教えを広めるために、
十二使徒が世界に散らばっていったさまを表現しています。

西ファサードのバラ窓 同(拡大)
◆諸王のギャルリー(Galerie des Rois)
28体の立像彫刻がずらりと横に並んでいます。
キリストの祖先であるユダヤとイスラエルの諸王の像です。
1793年、フランス革命勃発後、革命政府がこれを歴代のフランス国王像だと勘違いして、
下の広場に首を切り落として破壊しました。
ただし、それらはやはりフランス国王たちの彫像だという説もあるようです。
19世紀半ばに建築家ヴィオレ・ル・デュックが修復・復元しました。
たたき落とされたオリジナルの諸王の彫刻の断片(頭部など)は、
現在はクリュニー国立中世美術館(パリ、サン=ミシェル地区)に展示されています。

諸王のギャルリー(2004.8.17)

諸王のギャルリー(拡大)

クリュニー国立中世美術館に展示されている諸王の頭部(2001.8.20)
◆3つのポルタイユ(扉口)
西ファサードの一番下には3つのポルタイユ(扉口)が並んでいます。
3つの扉口は微妙に形や高さが異なっています。
中央のポルタイユは、左右のものよりも高くて大きいものです。
向かって左の「聖母マリアのポルタイユ」の上部は、装飾切妻(三角形の頭部)になっています。
中世には、わざと不均衡な作り方をすることで、
巨大な表面が単調に陥るのを和らげたと言われています。

聖母マリアのポルタイユ 最後の審判のポルタイユ 聖アンナのポルタイユ
★中央:「最後の審判のポルタイユ」
タンパン外周の6列からなるアーチ形曲線の下方には、
一番下に、墓場から復活してくる人々、その上段(中央の段)には
天秤で魂の罪の重さを測る大天使ミカエルと悪魔、その左側には天国に選ばれた人の列、
右側には悪魔によって地獄に引きずり込まれる罪人たちの列があります。
一番上の段には、左右を天使にはさまれてキリストが堂々と座っています。

最後の審判のポルタイユ(タンパン部分)
★右端:「聖アンナのポルタイユ」
タンパン外周の4列からなるアーチ形曲線は、天使と王と族長のいる天の王宮を表します。
聖アンナは聖母マリアの母親ですが、中心となるのはやはり聖母マリア像です。
聖母マリアの誕生と成長の物語が表現されています。
聖母マリアが中心にいてキリストを差し出しています。
マリアの左右には、このカテドラルの建設者モーリス・ド・シュリー司教(左)と
ルイ7世(右)がいます。
中段のまぐさ(12世紀)は、聖母マリアの生涯です。
下段のまぐさ(13世紀)は、マリアの両親である聖アンナと聖ヨアヒムです。
タンパンのうちの上2段は1170年頃の彫刻で、
ノートル・ダム大聖堂の彫刻の中では最古のものです。

聖アンナのポルタイユ(タンパン部分)
★左端:「聖母マリアのポルタイユ」
下段のまぐさには中央に、十戒を刻んだ石版の収められた契約の柩があります。
左側に、聖母マリアにキリストの誕生を告げる予言者たち、
右側には、マリアの祖先である諸王がいます。
2番目の層はマリアの最後の眠り(永眠)です。両側には天使がいます。
中央にはキリストがいて、左手はマリアの腹部に置かれ、右手で祝福しています。
その周囲はには十二使徒がいます。
左端に座る聖パウロ、その隣に聖ペテロ(天国の鍵を持つ)がおり、
右端に座るのは聖ヨハネです。
両端のイチジクとオリーヴの樹によって、ここが埋葬の地であると分かります。
マリアはキリストのように自力で昇天できません。
なので神の力で天上に持ち上げられることになります。
ゆえにこのポルタイユを「聖母マリアの被昇天(Assomption)」のポルタイユといいます。
ここではマリアは天に運ばれるために両側から天使によって持ち上げられようとしています。
最上部は、聖母マリアの戴冠となっています。
自分の息子であるキリストから冠を頭に載せられています。

聖母マリアのポルタイユ(タンパン部分)
前半はここまでです。
後半では、ノートル=ダム大聖堂の内部に入って行きます。
→後半に続く。