ヨーロッパ・アメリカ概論(PY)
第1回(4月14日・水曜4限)

ヨーロッパにおける「市民」と「広場」の思想~民主主義の歴史と伝統について
                      担当 中川久嗣(ヨーロッパ・アメリカ学科)



ヨーロッパ・アメリカ概論の第1回目(4月14日)と、第2回目(4月21日)の2回を、中川が担当します。
今日は2回のうちの最初の回です。

テーマは
ヨーロッパにおける「市民」と「広場」の思想~「民主主義」の歴史と伝統について
です。

「市民」の概念やその伝統というと、なんだか抽象的な話になりそうなので、
なるべく具体的な例を挙げ、「広場」や都市、建築物などとの関連について
触れていきたいと思います。
レポートについては、一番最後に記載します。


①「市民」とは何か                         
さて「市民」とはどのような概念なのでしょうか?
みなさんが「市民」といってよく目にしたり耳にしたりするのは、
例えば「市民センター」とか「市民講座」や「市民フォーラム」、
あるいは「市民ふれあい公園」や「市民病院」。「市民団体」なんてのもありますね。
最近では「市民活動とボランティア」なんてのも耳にします。
社会人になると「市民税」(=住民税)なども払わなくてはなりません。
これはちょっとイヤな言葉かも(笑)。

例えば私は、東京都町田市に住んでいるので「町田市民」です。
町田には「市民ホール」「市民公園」「市民プール」
「市民体育館」「市民フォーラム」などがあります。
「町田市民合唱団」も活動しているし、立派な「町田市民病院」だってあります。
こうやって見ると、私たちの回りには「市民」という言葉があふれていますね。

    
  
  
  
 

さてこのように今ではよく耳にしたり目にしたりする「市民」という言葉ですが、
実は、
本来はかなり特殊な概念なのです。
「市民」とは、一人の人間として、独立した人権を持ち、しかも政治的な権利も持って、
都市や社会や国家などの共同体を構成し、何らかの形でその運営に参画する人間のことを指します

今風に言うと、かなり「意識高い系」の言葉ですね。
実はとても政治的な意識・意味合いの強い概念だと言えます。

「市民ホール」とか「市民病院」という時の「市民」は、
どちらかと言うと、行政区分に従って「××市の住民」といった程度の意味しかありません。
そういう意味で、人権と参政権を意識した言葉としての「市民」に一番近いのは
「市民団体」とか「市民グループ」などかも知れませんね。
よくテレビや新聞のニュースで見る「市民団体が政治家の汚職を告発!」みたいな時の
「市民団体」とか「市民グループ」などが、政治性の高い言葉かも知れません。


さて、こうした意味での「市民」という概念は、いや、単なる「市民」という言葉さえ、
実は日本には
つい160年ほど前まではまったく存在しませんでした。
つまり明治維新の前、江戸時代(テレビで見たりするあの時代劇の世界)までは
日本には全然なかったということです。
あるいはつい70年少し前の太平洋戦争(第2時世界大戦)までだって、
普通に使われる言葉ではなかったと言ってもいいかも知れません。
「市民」が、普通の言葉として定着したのは、
実際のところ、せいぜいこの数十年くらいの話なのです。

繰り返しますが、日本人は、明確に江戸時代までは、
「市民」という言葉も概念も、
まったく知らなかったのです。
あるいは、今現在使われている「市民」という言葉だって、
政治的な意味合いの薄い「××市の住民」的な意味の「市民」を指すことが多いので、
政治的な意味合いの強いもともとの「市民」の概念は、
数十年前どころか、
実は今だって、まだそんなに定着しているとは言えないのかも知れませんね。

これは日本だけの話ではありません。
歴史上、イスラムにも、インドにも、アフリカにも、アジアにも、中国にも、
この「市民」の概念は現れませんでした。
この「市民」という考え方は、ヨーロッパの歴史にだけ現れたものでした
唯一、ヨーロッパにだけ生まれ、そして育まれてきた考え方・概念だったのです



②古代ギリシアの「市民」と民主主義の場・アゴラ            

そもそも、ヨーロッパが大切に育んできたこの「市民」の伝統が、
最初に生まれたのはいつのことだったのでしょうか?
それは、今から2千数百年前の、古代ギリシア文明においてだったのです。
古代ギリシア文明というと、皆さんは下の左側のようなイメージを持っている人が多いと思います。
アテネのパルテノン神殿やギリシア神話の神々の物語。 

  


上の右側の図は、古代ギリシア文明から現代までのヨーロッパ文明の流れを示しています。
古代ギリシアというと、神殿や神話だけではありません。
近現代のヨーロッパは、実に多くのものを古代ギリシア・ローマ文明から受け継いできたのです。
真理を追究する学問・思想・哲学、数学、天文学、医学などの科学、そして建築、芸術、文学の伝統など。
そして何よりも
「市民」の意識と民主政治の伝統を、
ヨーロッパは古代ギリシアから受け継いだ
のです。

高校世界史の教科書などでは次のように書かれています。
少し長いけれども引用しておきます。
「紀元前5世紀のなかばころ、将軍ペリクレスの指導のもとでアテネ民主政は完成された。
そこでは成年男性市民の全体集会である民会が多数決で国家の政策を決定し[……]
一般市民から抽選された任期1年の役人が行政を担当した。
裁判は、やはり抽選された多数の陪審員が、民衆裁判所において投票で判決をくだした。
市民は貧富にかかわらず平等に参政権をもち、
できる限り多くの市民が政治に参加することを求められた。[……]

民主主義という考え方を世界ではじめてうみだした点で、ギリシア民主政の世界史的意義は大きい。
(『詳説世界史B』山川出版社 )


ギリシア・アテネのアクロポリスの丘とパルテノン神殿

かくして、ヨーロッパは古代ギリシアから多くのものを受け継ぎ、
それを世界中の文明が、近代以降、今度はヨーロッパから導入したのです。
その最先端を行った
「西洋化の優等生」が日本だったのですね。

日本は、明治維新以降、それまでの時代劇の世界に出てくるようなチョンマゲを捨て、
カタナを捨て、殿様やサムライのあり方を捨て、古い日本の伝統文化の多くを捨て、
ひたすら西洋の技術を取り入れ、形の上は西洋の政治システムを導入し、
一生懸命に西洋化にはげみ、そして今日の姿を築き上げました。
今残っているのは「和食」とか「和室」とか「着物」くらいなものでしょうか。


ギリシアの「市民」と民主政治の話に戻りましょう。
上の世界史の教科書の文章を読むと、
古代ギリシアって「市民」と「民主主義」の源流みたいで
ズコイって思ってしまいますが、実は古代ギリシアの場合、
この「市民」というのは、土地や財産のある
成年男子のみでした。
ギリシアの都市国家の全人口のせいぜい1割か2割くらいの

いわば特権階級みたいなもの
です。
女性や子供や外国人や、そしてものすごくたくさんいた
奴隷たちにはなんの権利もありませんでした。
しかしまぁ、この一部の「市民」たちの中だけに限った話ではあるけれども、
その中では民主政治が行われていたことになります。
日本ではついこの前まで、それすらなかったということですね。

さて、古代ギリシアの都市国家にあって、
この
「市民」と「民主政治」のシンボルとも言うべきものが「広場」でした。
この広場のことを
「アゴラ」(Agora)と言います。
この「アゴラ」は、市民たちが多く集まって来て、さまざまなことを議論する
非常に重要な公共空間でした。
政治的な議論だけではなく、裁判も行われたし、商人の市場としても利用されたりしました。
古代ギリシアの多くの都市国家には、都市の中央にこの「アゴラ」が作られました。
そして市民たちが政治的な議論を行って、国の運営について意見を戦わせたのです。
したがってこの広場「アゴラ」は、古代ギリシアの「市民」の伝統と民主主義にとって
欠かすことの出来ない場所であり、シンボルそのものだったのです。


古代ギリシアの公共広場「アゴラ」



ちなみに、東海大学にも湘南キャンパス1号館1階に
「グローバル・アゴラ」(Global AGORA)なる空間があります。
古代ギリシアの「アゴラ」にちなんでその名前がつけられています。
国際教育センターが英語やその他の外国語を学ぶ学生をサポートし、
留学生を含む学生同士が交流するスペースだそうです。
私はまだ行ったことはないのですが、皆さん一度は訪れてみるといいかも知れません。
あくまでも言語学習のために作られたものらしいので、
古代ギリシアのようにあまり政治的な議論の場ではなさそうですけど(笑)。


グローバル・アゴラ(東海大学ホームページより)



③古代ローマの「市民」と公共空間・フォールム広場          
この古代ギリシアの公共広場である「アゴラ」は、
その次の古代ローマ文明では
「フォールム広場」という形で受け継がれます。
古代ローマの「フォールム広場」は、公共建築に囲まれ、集会場や市場として使用されました。

ローマは地中海全域と西ヨーロッパや東欧の一部を含む広大な領土を支配し、
あちこちに都市を建設して各地域の支配の拠点としましたが、
「フォールム広場」はそうした
ローマの都市には必ず造られました。
そして神殿、図書館、浴場などとともに
都市の中心施設を形成しました。


この写真はイタリアの有名な古代遺跡ポンペイです。
中央の下には縦長の大きなフォールム広場があります。
その周囲を神殿やバジリカ、市場などが取り囲んでいます。

ローマは紀元1世紀少し前頃から皇帝がトップに君臨する「帝国」になるので、
とても民主主義国家とは言えませんが、それでも
「市民」の伝統は受け継がれています。
ローマ帝国の中で一定の政治的発言権を持ち、諸権利を行使できたのはやはり「市民」でした。
この「市民権」を持つ者が、ローマの正当な構成員とされました。
もちろん政治的な実権は、皇帝をはじめ、元老院議員などの特権層が握っていたのですが、
建前として、ローマのこの「市民」たちは、ローマの構成員として尊重されました。
特に地方の属州の都市などでは、政治的・経済的に力を持った市民たちが都市の運営を行いました。
そして彼らは、それぞれの都市の中心にある
「フォールム広場」で議論をしたのです。

この「フォールム」というのは、英語読みすると「フォーラム」になります。
今でも日本で「市民フォーラム」などと言うと、このローマ市民の集会をイメージして、
「人々が集う場」というような意味を表しているのです。

ちなみに、この「フォールム広場などの公共建造物」という時の
「公共」とか「公共性」といった概念も、ローマからヨーロッパに受け継がれたものです。
日本には歴史上、残念ながらこの
「公共性」という考え方も、ほとんどありませんでした。



④中世ヨーロッパの市民と都市の自治                
古代の後に続く「中世」と言う時代は、およそ1000年続きました。
封建制度と身分差別が強かった時代で、文化的にはキリスト教一色だったこともあり、
ひと昔前は「暗黒の中世」などと言われたものです。
国王や貴族、キリスト教の聖職者といったほんの一握りの人間たちが、
社会や国家をガッチリと支配していました。
そう言うと、どうしても暗~いイメージですね。

しかし、そうした政治的には暗いイメージの時代にも、
「市民」意識の伝統は古代から脈々と受け継がれていました。
ではヨーロッパの中世社会で、「市民」たちはいったいどこにいたのか?

それはもちろん「都市」にいたのです。
ヨーロッパ中世の都市のことを、文字通り
「中世都市」と言います。

ヨーロッパ中世都市は、11世紀~12世紀頃から成長・発展し、その活力を発揮し始めます。
その「活力」とは、もっぱら経済力のことであり、
その担い手は「商人」たちでした。
彼らは、しばしば都市の中で発言権を強め、都市を支配してきた貴族や封建領主と対立します。
そして往々にしてそうした封建的な支配者たちを、都市から追い出したりするのです。

彼ら中世の「市民」たちは、封建領主などを追い出した後は、
その都市の運営を共同で担い、「自治」を行います。
いわゆる
「自治都市」ですね。

  
ラセール・ドゥ・プルイユ(フランス)            ネルトリンゲン(ドイツ)


ヨーロッパの中世都市は、小さなものでも大きなものでも、しばしば丸い形をしています(上の写真)。
そして
周囲を城壁で取り囲んで防御します。
都市の中心には、教会などと共に
「広場」と「市庁舎」があります(下の写真)。
「広場」には市民たちが集まり、さまざまな議論をしたりします。
まさしく古代ギリシア・ローマからの伝統です。
そしてそうした市民たちの代表が、「市庁舎」で都市行政を行い、
都市の自治を守ろうとしました。

  
ブリュッセル(ベルギー)のグラン・プラス広場と市庁舎   フィレンツェ(イタリア)のシニョーリア広場と市庁舎のヴェッキオ宮殿

ちなみに、日本では、歴史上やはりこのような「自治都市」というものは、
一部の例外を除いて存在しませんでした。
ここで言う数少ない「一部の例外」のひとつは、
例えば戦国時代16世紀の大坂の
堺の街(今の大阪府堺市)です。
堺では街を堀で囲んで防御し、商人(あきんど)たちが自治を行っていました。
しかし残念ながら、織田信長や豊臣秀吉などによって堺の街の自治はつぶされてしまいました。
日本の支配者や権力者にとって、市民による街の自治なんて、
とうてい許しがたいことだったのでしょうね。



⑤近代:市民革命としてのフランス革命                

1789年7月14日、パリ市民が蜂起して、封建的な圧政のシンボルであった
バスティーユ監獄を襲撃します。いわゆる
「フランス革命」の始まりです。
この革命によって、絶対王政を維持してきたフランスのブルボン王家や貴族たち、
そしてまた封建制と身分制度をバックアップしてきたキリスト教会の支配が打ち倒されました。

時代は、国王や貴族の一方的支配から、
経済的に力を持つに至った近代的な「市民」階級の世の中に変わります。
「フランス革命」のキャッチフレーズは、皆さんもよく知っているように
自由・平等・博愛ですね。
フランス革命はその後、さまざまな紆余曲折を経て、
当初の目的はなかなか達することが出来ませんでした。
しかし近代的な市民によって唱えられたこの「自由・平等・博愛」の精神は、
崇高な理念として後の世界に受け継がれ、
近代の民主主義思想の柱ともなっています。


フランス・パリのコンコルド広場。かつては革命広場とも呼ばれた。
ルイ16世やマリー・アントワネットのギロチンによる処刑も行われた。「コンコルド」とは「和合・融和」という意味。

⑥日本の広場                           
先に、日本の歴史には「市民」という概念がなかったと言いました。
したがって、人々が集まってきて議論をするための「広場」というものも、
日本の歴史にはほとんどありませんでした。
西洋の歴史では、「広場」は非常に重要な公共空間で、大きな都市になるほど
多くの場合、必ず作られました。

しかし
日本の場合には、町や村の中には「広場」は意図的に作られませんでした。
平安時代の昔から鎌倉・室町・江戸時代を通じて、支配者(貴族や武士)たちは、
庶民が必要もなく集まって来て、何か自分たちにとって
都合の悪いたくらみ話をするかも知れないような空間を嫌い、
それをむしろ
なるべく作らないようにしてきました。
庶民や農民は、文句を言わず、おとなしく貴族や武士に支配されていればいいんだ、
みたいな感じでしょうか。

あちこちの街の中に「広場」や「公園」が作られるようになるのは、ようやく戦後のことです。
せいぜいこの数十年くらいのことでしょうか。
西洋の街を見習って、人工的に作られるようになりました。
と言っても、それはあまり西洋的な「市民」の思想とは結び付いたものではないので、
ほんの申し訳程度の広さしかなかったり、腰掛けるベンチがなかったり、
不便なところにあったり、です。
ひょっとしたらいまだに、ちゃんとした「広場」のない街が、
結構少なくなかったりするかも知れませんね。
皆さんが住んでいる地域にちゃんとした「広場」があるかどうか、思い起こしてみて下さい。

繰り返しますが、ヨーロッパでは、
都市の「中心」に大きな「広場」があります
それはそこに住む人々の生活の中心であり、
はるか昔の
古代から受け継いできた「市民」意識の中心であり、
しばしば政治の中心であり、社会や文明の中心であり、
それらの
かけがえのないシンボルだったのです。
そこが日本の場合と大きく異なる点だと言えるでしょう。

(西洋の「広場」とよく似た役割を果たした空間が、日本の場合は、
「お寺の境内(けいだい)」とかかも知れません。村祭りともかあったりして。
でもその空間は、決して街の「中心」ではないのです。)



フランス・モンペリエの中心、コメディ広場


★★課題★★
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それに自分なりの意見や感想などを付け加えて、メールで送って下さい。
ワードなどに書いて添付するのではなく、メールに直接書いて送って下さい。

字数は
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期日は
4月20日(火曜)の22時までです。

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 例:メールタイトル:  
概論/0BPY6789/東海太郎

メールアドレスは次の通りです。
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