ヨーロッパ・アメリカ概論(PY)/ヨーロッパ文明概論(BY)
第2回(4月21日・水曜4限)
西洋近代文明における人間の理性と自己意識の思想
担当 中川久嗣(ヨーロッパ・アメリカ学科)
ヨーロッパ・アメリカ概論の第2回目(4月21日)も中川が担当します。
今日のテーマは
「西洋近代文明における人間の理性と自己意識の思想」
です。
前回は「市民」とか「広場」とかの話をしました。
今回もやはり、と言うか、もっと抽象的な内容の話になります。
しかも前回の話と、すこしカブるところもありますが、どうかお許し下さい。
①今では日本はすっかり近代化・西洋化した
さて、前回も少し話しましたが、日本はおよそ150年前に、
明治維新によって江戸時代が終わり、新しい時代が始まりました。
時代劇に出てくるサムライや大名の時代から、
科学と技術と機械と近代文明の時代に入ったのでした。

↑ 150年前までのサムライの時代のイメージ ↑
日本は1868年から明治という時代に入りました。
チョンマゲを捨て、カタナを捨て、形の上は武士を含めた封建的な身分制度を捨て、
江戸時代まで続いた生活や文化の様式の多くを捨て、
新たに洋服を着て、洋食を食べ、大学を作り、工場を建て、鉄道を走らせ、ビルを建て、
新しく軍隊を整えました。
こうした生活様式の変化を「近代化」と言います。
そしてこれはさらに別の言い方をすると「西洋化」なのです。
日本は、150年前の明治維新以来、古い文化や生活様式を捨てて、
一生懸命「近代化=西洋化」して来ました。
そうでなければ、西洋の列強諸国に攻められて、ひとたまりもなく植民地にされていたかも知れません。
なので、一生懸命になって西洋(ヨーロッパ)の科学と技術を取り入れて、
西洋に追いつけ追い越せ路線を突っ走って来たわけです。
実は、それは日本だけではありませんでした。
西洋(欧米)以外の、世界の他の文明や他の国々も、19世紀後半からどこもみなそうして来たのです。
しかし、日本は「近代化=西洋化」の最優等生でした。
短期間のうちにそれに最も成功した驚くべき国だと、よく言われています。

新宿に立ち並ぶ高層ビルの夜景、時速250キロで突っ走る新幹線。
みなさんも、毎日スマホを使い、パソコンでネットをし、テレビを見て、
飛行機や電車やクルマに乗り、洋食を食べ、洋服を着て生活しています。
今の時代、大学に来る学生のほとんど和服ではなく洋服です。
そもそも大学というのも、もともとは西洋の教育制度です。
そこで勉強する学問はすべて西洋の学問です。
古いものは、せいぜい家にタタミの部屋があったり、和食を食べたり、
卒業式で袴(ハカマ)を着るくらいでしょうか。
②西洋近代文明の合理主義
ところで、日本が「近代化=西洋化」によって西洋(欧米)から取り入れたものは、
いったいどんなものだったのかと言うと、
それはもっぱら物質的なものと制度的なものの2つであったと言えます。
物質的なものとは、要するに「科学と技術」です。例えば
電気、ガス、高層ビル、工場、機械、工業、クルマ、飛行機、兵器、鉄道、
コンピューター、カメラ、テレビ、ラジオ、洗濯機、洋服、洋食、病院、薬品などなど。
こうして挙げればキリがありません。
制度的なものとは、例えば
学問・科学、数学、医学、人権や平等の概念、資本主義、民主主義、官僚制、
学校、病院、会社、制度としての警察や軍隊、芸術などなど。
前回の授業で取り上げた「市民」の意識などもそうですね。
ここで「芸術」というのを挙げましたが、例えば絵画における「遠近法」は西洋の様式だし、
音楽なども、バンドとか吹奏楽をやっている人は分かると思いますが、平均律と近代和声法、
そして楽器編成など、すべて西洋のものです。
こうした挙げたものすべてが、西洋近代にのみ生まれて発展したものです。
上のどれをとっても明治維新以前の江戸時代の日本にあったものはほとんどありません。
そしてこれらはすべて西洋近代の「合理主義」が生み出したものなのです。
合理主義をひと言で説明するのはとても難しいですが、要するに、
すべてを「1+1=2」式で考え、説明し、処理し、活用していくやり方です。
科学や技術はその典型的なものですね。
科学や技術は「1+1=2」でないと成立しません。
「1+1」が「4」になったり「10」になったりはしません。
資本主義や会社の世界もそうです。
要はお金の計算で成り立っている世界なのですから。
分かりにくいのは、人権とか民主主義と、合理主義の「1+1=2」がどう結び付くのかですが、
これも実は簡単です。
1人の人間の価値はみんな「1」です。人間2人だと「2」です。
人間が100人いたら価値の総計は「100」です。
人間の価値はみんな「1」なのです。その意味で「平等」です。
国王や皇帝、貴族のように1人の価値が「50」だったり「100」だったりする
人間はいないというのが近代社会の大原則です。
みんな等しく価値が「1」の人間が集まって社会を作る。
その社会をどのように動かしていけばいいかを考える、というのが近代の政治の原理原則です。
③「計算」する近代的な理性
こうして、すべてを「1+1=2」方式で考えていくということは、
言葉を変えると、すべてを「計算」で処理していく、ということと同じです。
例えば、資本主義も会社の世界もすべてお金の「計算」で動いています。
西洋の近代合理主義は、およそこの世界は(人間も含めて)、
すべて機械的に(合理的に)できている。言い換えれば「1+1=2」の原理原則でできていて、
そうである以上、人間は「理性」を使って、
これらをすべて合理的に「1+1=2」方式で認識することができ、
説明することができ、分析することができるはずだ、という信念に貫かれています。
重要なのは「計算」です。言わば「数学」の世界です。
人間はひとりひとりみな平等に「理性」を持っていて、この「理性」を使って、
数学的にちゃんと「計算」すれば、
この世界は端から端まで全て認識・理解可能であるはずだ、
という信念です。
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(数学の世界/イメージ)
さらに西洋の近代合理主義はこう考えます。
この世界すべてを「理性」によって、「数学」によって「知る」ことができるのならば、
それを「理性」や「数学」を用いて、「利用」することができるはずだ。
もっと言うと「支配」することができるはずだ。
まさしく「知は力」です。「理性は力」なのです。
これが西洋近代文明の力の基盤なのです。
近代西洋文明は「自然支配」の文明だ、などとよく言われますが、
これは西洋近代の「合理主義」の必然なのです。
かくして人間は、海を埋め立て、川をせき止め、ダムを造り、自然を開発し、
原子力などを利用してエネルギーを獲得し、
さらに人体を支配・活用し、DNAを操作し、クローンを生み出し、
宇宙を利用し、世界と自然を支配し続けるわけです。
④理性を持つのはあくまで「私」
さて、こうしてすべてにおいて「計算を貫いてゆく合理主義」を推し進める
この西洋近代的な理性を持つのは、いったい誰なのでしょうか?
西洋では、これは明確に決まっています。
つまり、理性を持つのは、ひとりひとりの「私」なのです。「自己」なのです。
西洋近代の思想、学問、文化などの根底には、そのすべての基盤には、
「私」という存在があるということです。
「他人」「他者」ではありません。
「私/自己」なのです。
西洋近代の思考・学問・文化は、すべてを「私」から出発して説明し、構築し、展開して行こう
とする考え方・態度があります。
あらゆるものの基盤にあるのは「私」という存在なのです。
17世紀のデカルトというフランスの哲学者は、
人間には正しい認識を遂行する能力(つまり科学を行う能力)があるんだということを
哲学的に証明しようとするまさにその時に、
まず何よりも「私」というものが存在するんだ、という証明から出発します。

同じく17世紀のスピノザというオランダの哲学者は、
人間の倫理道徳の最初にして最も基本的で最高の原理は
「私が私自身をしっかりと持って、それを守ること(自己保存)なのだ」と主張します。
他人の保存・保護なのではなくて、まず何よりも「私自身」の保存・保護なのです。

20世紀のフランスの実存哲学者サルトルは、
「私が私自身を、私の手で作り上げていくこと」が人間存在のあるべき姿なのだ、と言います。
ひとりの人間を作り上げるのは、親や家族や教師や友達といった「他者」ではなく、
「私自身=自分自身」なのだと言うのです。

こうした西洋の思想に対して、日本の思想には、この千数百年の間、
「私」というものを肯定的にとらえて、それを打ち出していくというものは
まったくありませんでした。
むしろ日本では「私」をいかに抑えるか、あるいはいかに消すか、
ということがひとつの美徳として議論され続けてきました。
西洋と真逆ですね。
⑤西洋的な「私」の世界と、日本的な「共同体」の世界
日本は、明治維新以来、西洋の科学や技術や制度を一生懸命取り入れて、
「近代化=西洋化」してきました。
しかし精神的な伝統、伝統的なメンタリティーは、そのまま残っています。
われわれ日本人は、西洋的な「私=自己」意識まで取り入れたわけではありません。
以下、こうした「私=自己」の意識を基盤とした西洋(欧米)社会と、
そうではない日本社会の比較をしておきましょう。
ただし、どっちの社会の方が「良い」とか「悪い」とかと言う話ではありません。
それぞれに良い点と悪い点があります。
両方の良い点だけを集めたような社会があるといいな、とは思うのですが。
◆西洋社会の良い点
西洋(ヨーロッパやアメリカ)では、大切なのは何よりもまず「私=自己」です。
この強力な「私=自己」というものを持って、そして自己主張をします。
極端な話、欧米では自己をしっかりと持って「自己主張」ができない者は人間失格です。
彼ら彼女らは、とにかく自己主張で生きています。
他人とは違う自分自身の意見を持ち、それをガンガン主張します。
言い換えると、堂々と自己主張をしていいのです。
それが許されているのです。
主張内容で批判されることはあっても、主張すること自体が批判されることはありません。
◆西洋社会の悪い点
ただし、そういうわけで、言葉は悪いですけど、基本的にみんな「自分ファースト」です。
あるいは「自己チュー」なのです。
もっと悪く言うと、他人なんてどうでもいいのです。まずは「私=自分」なのです。
ある意味「冷たい社会」ですね。
欧米ではとにかく「自分ファースト」ばかりなので、
放っておくとすぐに「自己チュー」と「自己チュー」が対立し、大変な議論・論争になります。
社会全体のレヴェルでは、「万人の万人に対する戦い」(ホッブス)が始まり、
もっと極端に言うと「殺し合い」が始まります。
なので、そうならないように、「隣人愛」を説くキリスト教という宗教、倫理道徳の理論、
社会契約に基づく政治理論、強力な警察権力などが必要となるのです。
◆日本社会の良い点
私たち日本社会では、普段の生活ではあまり「私=自己」というものを意識しないし、
主張しないし、前面に出しません。
きっとみなさんも多かれ少なかれそうだと思います。
自己主張をせずに、目立たず騒がず静かにじっとしていれば、波風が立たずに事なきを得られます。
他の人間たちの中に埋もれて目立たないこと、これが何よりも安心と安全をもたらしてくれます。
そしてむしろ「他者」、つまり「みんな」を大切にします。
「みんながいたから頑張って来れた」みたいな発言は、いろいろな場面でよく見ますね。
目立つことさえしなければ、家族が、クラスが、友だちが、カイシャが、
つまり他者である「みんな」が、暖かく守ってくれます。
西洋のような「万人の万人に対する戦い」は起こりません。
日本はなんて「暖かい社会」なのでしょう。
◆日本社会の悪い点
しかしこのことを裏返して言うと、
日本社会で安心して生きていく為には、自己主張したり文句を言ったりしてはいけません。
ちょっと強く自己主張をすると、
「何だあいつは!」とか「何?あのコは」みたいな冷たい目で見られ、
周囲から批判・攻撃されます。
日本では「みんな」という共同体が、あるいは「ムラ社会」を壊すようなことをすると、
ただちに「仲間はずれ」や「村八分」にされます。
私も皆さんと同じ日本人なのでよく分かります。
日本人にとって何より恐ろしいのは、
周囲から冷たい目で見られることや「仲間はずれ」・「村八分」です。
日本では自己主張をしてはいけません。目立ってはいけないのです。
「他人の目恐怖症」みたいなものがあるのかも知れません。
日本社会の「暖かさ」は、こうした個人の抑圧と表裏一体となったものなのです。

個人主義の欧米と共同体主義の日本(ただし、どちらが良いとか悪いとかという話ではない)
⑥日本の最近の「ワタシ」ブーム
さて最後に、そうした日本でも最近は少し雰囲気が変わってきたというお話です。
このごろは、日本でも「自分をしっかり持て」とか「個性を育てる」とか「自分らしさが大切」とか
盛んに言われるようになりました。
以下は、私がこれまで集めた広告や宣伝のキャッチ・コピーのごく一部です。
「自分で自分をプログラムする」(エグザス)
「自分がないから、自分みつけたい」(UCCコーヒー)
「もうひとりの私がいる」(角川文庫)
「自分を読む」(角川文庫)
「自分が素敵な家族たち」(伊藤忠ハウジング)
「まず、自分が素敵になる」(伊藤忠ハウジング)
「会いたいのは、新しい自分」(まなびピア89)
「新しい私になれ!」(スマイレージ)
「ワタシが、深まる」(日本たばこ産業)
「私はいつだって、自分のままでいたい」(ソシエ)
「私は私らしい方がいい」(日本通運)
「私の、存在感」(大塚美容整形)
「じぶん、はじめ」(東海銀行)
「自分原人」(日本システムウェア)
「自分らしさ、きらり。」(ダマール)
「自分らしさ、持ってる?」(J-Phone)
「自分をグッドデザインしよう」(日本勧業角丸証券)
「いろんなワタシに、ワタシはなりたい」(大和銀行)
「私に花を咲かせましょう」(東京ハウジングアカデミー)
「なりたい“私”になれる……」(ヒューマン・アカデミー)
「もっともっと、私になりたい。」(女性雑誌「クレア」)
「きっと、自分が、好きになる」(劇団ひまわり)
「オレ流」(落合博満の言葉)
「つぎのわたしへ、グッドデザイン」(小田急電鉄)
「わたしの宝物は、わたしだと思う。」(ルミネ)
「新しい私は、私がつくる。」(町田東急百貨店)
「新しいわたし、はじまる。」(富士通パソコン)
「りそな・次の私へ!キャンペーン」(りそな銀行)
「ワタシが生まれ変わる場所/自分らしい人生を歩み始めた人たち」(雑誌『nid』)
「わたしは、私。」 (そごう)
「新しい私が始まる」(そごう)
「一生モノの私になろう・ひとりを光らせる和光大学」
「いま、わたしはいるんだ。」(帝京平成大学)
「ワタシが、イキル。はじめよう。マッククルー」(マクドナルド)
繰り返しますが、これらはごくごく一部に過ぎません。
私たちの回りには「私」や「自分」を語るキャッチ・コピーがあふれています。
これは逆に言うと、それだけわれわれ日本人には
「私」や「自分」がない、ということなのです。
欧米でこのテのキャッチ・コピーを宣伝や広告で見ることは、
絶対とは言いませんが、ほとんどありません。
つまり彼ら彼女らにとって、「私」や「自分」をしっかり持つというのは、
ごく当たり前のことだからです。
わざわざあらためて「ワタシは大事」みたいなことを言う必要なんてないのです。
⑦オマケの話
さて、最近の若い人や学生たちには、
「友だちがいないと見られること」に対する恐怖心があると言われます。
「あいつはいつも一人だ」とか「あのコ、友だちいないんだ」みたいに、
周囲から思われたり言われたりすることがとても怖いのです。
皆さんもひょっとしたらそうかも知れませんね。
さて今日は、欧米の人々は「私=自己」をしっかり持って生きている、という話をしてきました。
ヨーロッパでもアメリカでも、「ひとりで生きている」ということは、
実はとっても「カッコイイ」ことなのです。
自分の進むべき道をまっすぐ見て、一人で孤高に行動し生きている人は「カッコイイ」のです。
て言うか、それがむしろ当たり前なのです。
いつも友だちと一緒にいる人間は、
「ひとりでは生きて行けない可哀想なやつ」とか「他人がいないと生きていけないやつ」
「自分というものをちゃんと持っていない哀れなやつ」という風に見られます。
反対に、日本では「友だちが多いこと」イコール「素晴らしいこと」
みたいな雰囲気がありますね。
「友だちが多い」ということを自慢げに話す人が時々いますが、
果たしてその人には「本当の友だち」というものが、いったいどれくらいいるのでしょうか?
大学に来て、たわいもない話をするだけの「友だち」はたくさんいても、
「本当の友だち」は案外いなかったりします。
実はみんな「孤独」だったりするのです。
悩みを相談し合ったり、卒業した後も長い人生の中でずっと付き合っていけるような
そうした「本当の友だち」は、そう簡単には見つかりません。
大学4年間で、1人でもそういう「友人」ができれば、大学生活は大成功だと思います。
少し前に、「あいつはひとりだ・孤独だ」と思われるのが怖くて、
トイレの個室の中でお昼を食べる学生がいる、といったことがニュースにもなりました。
欧米ではあり得ない話です。
繰り返しますが、ヨーロッパやアメリカでは、
いつも友だちと群れている人間は、ダメ人間だと見られます。
皆さんの中には「自分にはあんまり友だちがいない」と
後ろめたく思っている人がいるかも知れません。
全然まったくそんな風に気にする必要はありません。ホントです。
友だちがたくさんいるというのも、それは素晴らしいことです。
それを否定するつもりはありません。
しかしその一方で、「一人でいること」「一人で生きていること」だって
「カッコイイこと」なのです。
「一人で生きていける」人間は、実はとても強い人間なのです。
気にすることなんて、全くありません。

本日の第2回目の授業はこれで終わりです。
第3回目からは担当教員が変わり、授業の方式も変わります。
授業支援システム(Open LMS)で確認して下さい。
| ★★課題★★ 本日のこの授業内容について、自分で重要だと思った点をまとめ、 それに自分なりの意見や感想などを付け加えて、メールで送って下さい。 ワードなどに書いて添付するのではなく、メールに直接書いて送って下さい。 字数は300字以上~400字くらいまで。 期日は4月27日(火曜)の22時までです。 メールのタイトルには必ず、授業名、学生証番号、氏名を書いて下さい。 メールタイトルの例: 概論/1CPY6789/東海太郎 ※前回の課題提出でも、名前も書かずに学生証番号だけで送ってくる人が何人かいました。 メールアドレスは次の通りです。 nakagawa@tokai-u.jp |