ヨーロッパ・アメリカ特殊講義B

第5回/古代~中世日本の死生観                    
今回は、古代から中世にかけての日本における死生観がテーマです。
神話の世界から平安・鎌倉時代にかけての仏教における生と死の話になります。

1.黄泉の国訪問神話                         
創世神話のところでとりあげた『古事記』を再び取り上げます。
「国生み」の場面で登場した「イザナギ(伊弉諾尊)」と「イザナミ(伊弉冉尊)」は、
日本の国土を生むだけでなく、数多くの神々をも生んでいきます。
イザナミ(イザナミノ命[みこと])は、最後に火の神を生んだことが原因となって
とうとう亡くなってしまいます。

[イザナギは]次にヒノヤギハヤヲノ神を生んだ。またの名はヒノカガビコノ神といい、またの名はヒノカグツチノ神という。この子を生んだために、イザナミノ命は、陰部が焼けて病の床に臥された。[…]イザナミノ神は、火の神を生んだのが原因で、ついに亡くなったしまった。
[…]亡くなったイザナミノ命は、出雲国と伯耆国との境にある比婆の山に葬られた。
      
(『古事記(上)』次田真幸全訳注、講談社学術文庫、1977年、現代語訳一部改変、以下同じ)

イザナミが葬られたという「比婆の山」は、今の島根県と広島県の境にある標高1240メートルの
「比婆山」と言われています。
ただしイザナミの墓所の伝承地は、『古事記』に記されている比婆山の他、三重県熊野市や、
島根・広島県境を中心として日本各地にあります。
 
    島根県と広島県の境にある比婆山        三重県熊野市花の窟神社にあるイザナミの墓


夫であるイザナキは、死んで「黄泉の国(よみのくに)」に行ってしまった妻のイザナミに
会いに行くことにします。
「黄泉国(よみのくに)」は、神々のいる天上界に対して下界(地下世界)と考えられ、
そこは死者の行く穢(けが)らわしい暗黒の世界と考えられたのです。

イザナキノ命は、女神のイザナミノ命に会いたいと思って、後を追って黄泉国に行かれた。そこで女神が、御殿の鎖(とざ)した戸から出て迎えたとき、イザナキノ命が語りかけて「いとしいわが妻の命(みこと)よ、私とおまえとで作った国は、まだ作り終わっていない。だから現世に帰れ」と言われた。イザナミノ命が答えて言うには、「それは残念なこと。もっと早く来て下さればよかったのに。私はもう黄泉国の食物を食べてしまった。けれどもいとしい私の夫の君が、わざわざ訪ねて来て下さったことは恐れいります。だから帰りたいと思うが、しばらく黄泉国の神と相談してみます。でもその間、私の姿を見てはなりません」と申した。
こう言って女神は、その御殿の中に帰っていったが、その間がたいへん長くて、男神は待ちきれなくなられた。[…]それで男神は、御殿の中に入って中をのぞいてみると、イザナミの身体には蛆(うじ)がたかり、ごろごろと鳴って、頭には大雷がおり、胸には火雷がおり、腹には黒雷がおり、陰部には析雷がおり、左手には若雷がおり、右手には士雷がおり、左足には鳴雷がおり、右足には伏雷がおり、合わせて八種の雷神が成り出でていた。
               
※「析雷」とは「さくいかづち」と読み、物を裂く威力のある雷のこと。

最初に面会したとき、妻のイザナミは「私はすでに死者の国の食べ物を食べてしまった」と
言っていることに注目しましょう。ここには「
死のケガレ」が自分の体に取りついてしまった
という考え方が表されています。
見てはならないとされたイザナギの体は、まるで土の中に埋葬されて腐敗した死体
さながらに凄惨で醜い姿を見せていたのです。まさしく「死者の国」のイメージそのものです。
ここでは死霊に対する恐怖心が語られているのです。
死霊や死のケガレに触れることの恐ろしさが神話という形で表現されているのでしょう。
いずれにせよ、びっくり仰天したイザナキは、地上の世界にとっとと逃げ帰ることにします。

これを見てイザナキノ命が、驚き恐れて逃げて帰られるとき、女神のイザナミノ命は「私によくも恥をかかせた」と言って、ただちに黄泉国の醜女(しこめ)を遣わして追いかけさせた。
[…]そして後には、八種の雷神に千五百人もの大勢の黄泉国の軍勢を従わせて追跡させた。
[…イザナキが]現世と黄泉国との境の黄泉比良坂(よもつひらさか)のふもとまでやって来たとき[…]最後に、女神のイザナミノ命自身が追いかけて来た。そこで男神は、巨大な干引の岩をその黄泉比良坂に引き据えて、その岩を間にはさんで二神が向き合い、夫婦離別のことばを交わした。[…この]黄泉比良坂は、今の出雲国の伊賦夜坂(いうやさか)という坂である。

自分の腐敗した姿を見られた妻であるイザナミは、軍勢を率いて夫であるイザナキを追いかけ、
ついには「黄泉比良坂」で大きな「千引の岩」をはさんで対峙します。
イザナミは言います。
「あなたがそんなことをするなら、私はあなたの国の人間を一日に千人絞め殺すわよ」
イザナキは答えます。
「なら、私は一日に千五百人の赤ん坊を産ませることにするぞ」
なかなかすごい会話です。

二人が別れの対面をしたという「黄泉比良坂」(よもつひらさか)は、黄泉の国への出入口
とでも言うべき坂ですが、今の島根県松江市に残っています(あくまでも伝説ですが)。
そこにはイザナキとイザナミがそれをはさんで対面したという大きな「干引の岩」もあります。
またその近くには「伊賦夜坂」を連想させる「揖屋(いや)神社」があります。
 
島根県松江市に残る「黄泉比良坂」            イザナキとイザナミが対面したとされる「干引の岩」


さて死者の国から戻ってきたイザナキは、
「禊ぎ(みそぎ)」の儀式を行って、
体についた「死のケガレ」を洗い清めます。

このようなわけで、イザナキノ大神が言うには、
「私は、なんといやな穢(けが)らわしい、きたない国に行っていたことだろう。だから私は身体を清める禊(みそ)ぎをしよう」と仰せられ、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に行き、禊ぎ祓え(みそぎはらえ)をされた。

「禊ぎ(みそぎ)」とは、古代から重要な宗教儀礼で、たいていは海や河原などで行われました。
水の「浄化力」によって、
罪・穢れ・禍(わざわい)などを洗い清めるための呪儀です。
「穢れ(ケガレ)」という感覚・観念は、日本人独特のものであるとも言われます。
単なる「汚れ」のことではありません。
体や心に取り付く、どうしようもなくいやな、不吉な、いまわしい負の要素です。

われわれ日本人は、とりわけ
「死の穢れ」を忌み嫌う心性を持っています。
しかし、それを
浄化する手段もまた持っているのです。
穢れ(ケガレ)は洗い流すことが出来るのです。


この「禊ぎ(みそぎ)」という言葉は、最近は汚職などをした悪い政治家とかが、
選挙で再選されると「禊ぎは済んだ」と言って大きな顔して政治の舞台に戻ってくる時に
よく聞く言葉になってしまっていますね。
汚職の罪というケガレは簡単に洗い流すことが出来るというわけです。困ったものです。

(※左上の「猪目洞窟」は死者の国への入口であるとの言い伝えがあります)



2.死の無常と地獄のイメージ                     

12世紀、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、平氏と源氏の争いなどの戦乱がうち続き、
世の中が大いに乱れるとともに、戦争や病気による「死」の陰がよりいっそう
人々の身近に感じられるようになります。そして死後の世界である「地獄」のイメージが
さまざまな形で想起されるようになります。ここではそうした例をいくつか紹介しておきましょう。

『平治物語絵巻』
鎌倉中期(13世紀後半)の作品。平治の乱(1159)に取材した軍記物語『平治物語』を
絵巻化したものです。
中でも
「三条殿夜討の巻」は、平治の乱の発端になった源義朝(みなもとのよしとも)らの
クーデターを描いています。藤原信頼(のぶより)と源義朝(よしとも)の軍兵が
後白河(ごしらかわ)上皇の御所三条殿に火を放ち、上皇を内裏(だいり)に移して幽閉する場面です。
現在はアメリカのボストン美術館が所蔵しています。
紅蓮の炎の下で敵味方入り乱れ、繰りひろげられる凄惨な光景など、
合戦絵巻中の最大傑作とされます。
 
                 『平治物語絵巻』から「三条殿夜討の巻」(部分)


『九相死絵巻』
「九相図」とは、屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画。
中でも、平安時代に絶世の美女と言われた小野小町(平安時代前期9世紀頃の女流歌人)の
死体の変貌の様子を描いた絵図が有名。生の無常が伝わってくる。
京都市左京区の浄土宗安楽寺所蔵。
  


『金戒光明寺(京都)地獄極楽図』
鎌倉時代後期。重要文化財。画面右下には「現世」、左下には「地獄」、
画面上方には「極楽」が描かれる。
中央には大きな「大海」が広がる。仏教的宇宙観・死生観を表現している。
 
               『金戒光明寺地獄極楽図』(左)と「地獄」の場面(右)


『地獄草紙』

地獄を描いた12世紀後半の絵巻物。
恐ろしい地獄の責苦を受ける罪人たちの苦悩や戦慄を仮借のない筆で描き出した絵巻。
その時代、動乱期の社会不安を背景として、仏教の六道輪廻の苦しみに満ちた世界観を強調し、
極楽浄土への希求へと人々を駆りたてた。現存する代表作として東京国立博物館本(原家旧蔵),
奈良国立博物館本(安住院旧蔵)があげられる(いずれも国宝)。
 
         『地獄草紙』から。地獄にいる魔物や化け物に苦しめられる死者の魂


3.浄土思想について                         
①浄土教について
戦乱や疫病などによって世の中が乱れ、現世は苦痛に満ち、死の影があちこちに
感じられるようになると、それに対して死後の安楽な世界を希求する思想が現れることになります。
死後、極楽に行きたいという人々の望みや信仰が、10世紀以降の平安仏教における
「浄土教」
という形で発達し、平安時代から中世の鎌倉時代を通して広く世の中に流布しました。

浄土教とは、仏教の中で「阿弥陀仏」を信じ、念仏を唱えて清浄な仏の国、
すなわち
「極楽浄土」に往生し、さらに「成仏」することを説く教えです。
特定の「宗派」というわけではなく、仏教の中に広く見られる思想のことです。

「成仏」とは、単に極楽浄土に行くことを意味する場合もあれば、
この世に対する未練を残さずに極楽浄土で「解脱」し「悟り」を開いて仏(仏陀)になることを
意味したりします。

浄土教(浄土思想)を唱えた主要人物には以下のような人々が知られています。

 円仁(えんにん・794-864) 唐から「五会念仏」(ごえねんぶつ)を導入。
 空也(くうや・903-972) 踊り念仏を民衆の間に広める。
 源信(げんしん・942-1017) 日本浄土教の祖。『往生要集』(985年完成)の著者。
 法然(ほうねん・1133-1212)浄土宗の開祖。「南無阿弥陀仏」と称名で往生。
 親鸞(しんらん・1173-1262)浄土真宗(一向宗)の開祖。信心為本と悪人正機説。
    語録は「歎異抄」。
 蓮如(れんにょ・1415-1499)浄土真宗本願寺の中興の原動力。


②極楽浄土について
では、日本の古代から中世にかけてイメージされた「極楽浄土」とはどのような世界なのでしょうか?
百科事典には次のような説明がされています。

【極楽浄土】
阿弥陀仏の浄土の名。サンスクリットではスカーバティー。大乗仏教になって多くの仏菩醍が考えだされるようになったとき、それぞれの仏菩醍がそれぞれの浄土をもつという思想が現れた。そのなかでも阿弥陀仏の
西方極楽浄土は阿醗(あしゅく)仏の東方妙喜国と並んで特異なものである。《阿弥陀経》によると、阿弥陀の浄土は西方、十万億の仏土を過ぎたところにあり、苦はなく楽にみちているので極楽と名づけられる。この国土には七重の欄楯(らんじゅん、七重の羅網(らもう)、七重の行樹があり、四宝で飾られ、美を極める。七宝の池には八功徳水が満ち、池底には金沙が敷かれ、池辺には宝玉でできた階段や楼閣がある。池の中には種々の色の蓮華が咲き芳香を放っている。天上では音楽が奏せられ、つねに曼陀羅華が降り、種々の鳥が美しい声でさえずっている。鳥のさえずりや、水や風の音はそのまま説法となり、極楽の衆生はそれをきいて仏を念ずる。」(平凡社『世界大百科事典』)

ものすごく遠くにあるけど、言い尽くせないほどすばらしい場所、という感じです。
また10世紀後半に書かれた源信の『往生要集』では、極楽浄土の十の楽しみは
以下のようなものとされています。

源信『往生要集』による極楽浄土の十の楽しみ
 1.来迎の楽しみ
 2.蓮華の上に生まれる楽しみ
 3.立派な姿になり、神通力を持つ楽しみ
 4.絶妙な世界に住む楽しみ
 5.寿命のない楽しみ
 6.縁のある人を呼び寄せる楽しみ
 7.菩薩に会える楽しみ
 8.阿弥陀仏に会って説法を聞ける楽しみ
 9.思いのままに阿弥陀仏を供養できる楽しみ
 10.仏法を推し進める楽しみ



③往生の実際
浄土思想でイメージされる臨終(往生)では、
「来迎」(らいごう)という場面があります。
「来迎」とは「迎えに来る」ということ。いわゆる「お迎え」ですね。
具体的には、念仏信者の臨終の際、阿弥陀如来が、
25人の菩薩とともにたなびく紫雲(白雲)に乗って、
死んだ念仏信者を極楽浄土に連れて行くために迎えに来るのです。
自分を包み込む明るい光明、妙なる音楽、かぐわしい香りなどを伴うとされます。
やって来る菩薩たちは、香炉や楽器を持っています。
いわば香り付きのオーケストラが雲に乗って自分を迎えにやって来るわけですね。
なので、逆に誰かが亡くなって、いい音楽が聞こえたり、いい香りがしたら、
生きている者には菩薩たちは見えないけれど、
「ああ、この人は無事に極楽に行ったのだな」ということが分かるわけです。

下の絵は京都の知恩院が所蔵する13世紀の「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(国宝)です。
画面右下には、建物の中で念仏を唱える人物がいます。臨終の場面です。
画面左上からひときわ大きな阿弥陀仏と、それを取り巻くように25人の菩薩が雲に乗って
その臨終の人物を「お迎え」にやって来ています。
菩薩たちは楽器を演奏し、またダンスを踊っているものもいます。


「阿弥陀二十五菩薩来迎図」13世紀、京都知恩院。

下の絵も同じ来迎の場面です。
左側は臨終の女性のすぐ近くまで迎えに来た菩薩たち、
右側は、そうした菩薩たちの一人がいい香りのする香炉を持っている姿です。
 
「当麻曼陀羅縁起絵巻」13世紀後半、神奈川光明寺。      「阿弥陀二十五菩薩来迎図」13世紀、奈良興福院。


平安時代後期(10世紀末)頃に編纂された『日本往生極楽記』などには、さまざまな人々の
極楽往生の様子が記されています。その一部を紹介しておきましょう。
古文が苦手な人でも、おおよそ大意は分かると思います。

・僧都済源は、心意潔白にして世事に染まず。命終わるの日、室に香気あり、空に音楽あり。
                                        (『日本往生極楽記』9)
・沙門空也は、父母を言わず、亡命して世にあり[…]気絶ゆるの時、音楽空に聞こえ、
 香気室に満てり。嗚呼
(ああ)上人化縁己(すで)に尽きて、極楽に帰り去りぬ。(同、17)
・大日寺の僧広道
(こうどう)は、いくばくの年を経ずして入滅せり。この日音楽空に満ちぬ。
 皆々耳を傾けて、随喜し発心するもの多し。
(同、21)
・僧都(そうず)絶え入りぬ。その時に空に紫雲そびえて音楽の音あり。香ばしき香、室のうち
 に満ちたり。
(『今昔物語』より恵心僧都源信の臨終の場面)


日本の古代の神話から中世の仏教における浄土思想まで、死後はギリシア神話やキリスト教のように
魂は消滅するのではなく、地獄あるいは極楽に行くと信じられていました。
仏教の場合は、ただひたすら念仏を唱えることで極楽に行けると信じられたようなので、
キリスト教の場合よりは極楽(天国)に行くのは容易だったのかも知れません。
日本の仏教の場合は、キリスト教の「煉獄」に相当する世界はありません。
また死後に魂が「復活」するということもありません。
「最後の審判」もありませんが、死んだ後「閻魔大王」の前で罪が裁かれるというのは
似ていますね。

④女人往生について-女性の往生差別と変成男子思想
キリスト教の世界には、『創世記』におけるアダムとイヴの物語に
女性差別的な要素がありました。
同様の要素は、日本神話(古事記)における創世神話にも見られました。
古代~中世の日本の仏教の教えには、もっと露骨な形で女性差別の思想が見いだされます。

仏教には「三従」(さんじゅう)というのもあって、これは
「女は、子供の時は親に従い、結婚したら夫に従い、年を取ったら子に従え」という教えです。
(これはつい数十年前の戦前まで女性の倫理道徳とされていたものでもあります。)

また女性はいくら仏教の教えを信じ、いくら修行しても男のように死後に仏にはなれない
とされていました。これを
「女人五障」(にょにんごしょう)の教えと言います。
女性が死んだ後「成仏」するためには、男性に生まれ変わらなければならないともされていました。
これを
「変成男子(へんじょうなんし・へんじょうだんし)説」と言います。

宗教の世界、とりわけ修行を行う聖職者(キリスト教だと修道士たち、仏教だと修行僧たち)
にとっては、女性は修行の障害であって、男性聖職者の欲望をかき立て、
修行のジャマになるもの以外の何ものでもありませんでした。

しかしキリスト教の世界では、死んだ後まで女性差別が残るというのは、
少なくとも表向きはありません。
むしろ「聖母マリア崇拝」とか「マグダラのマリア信仰」とかがあるくらいです。
しかし仏教の場合は、女性崇拝なんてとんでもない。それどころか、
死後にまで続く女性差別が、堂々と教え(教義・仏典)の中に表明されていたのです。

女性は男性に生まれ変わらないと極楽浄土で成仏できません。
そのため「法華経」などでは、女性は死んだ後、女性器が消えて、男子の性器が生じる、
とあるそうです。
私は実際に見たことはないのですが、仏教画の中には死後の女性にペニスが
にょきにょきと生えてくる絵まであるそうです。

千年前に書かれた仏典を今の社会の基準で批判し断罪することは、簡単なことです。
大切なのは、現代を生きる私たちが、そうした過去の歴史を踏まえて
今の社会に批判的な意識を持ってどう生かしていくかということだと思われます。
遅まきながら、仏教界においても、そうした意識を大切にして、
時代に即した教えのあり方の模索が始まっているようです。


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【参考文献】
角川・鑑賞日本古典文学『古事記』
講談社学術文庫版『古事記』
益田勝実『古典を読む・古事記』岩波書店
吉本隆明『共同幻想論』
山本清編『風土記の考古学③出雲国風土記の巻』 同成社、1995年。
関和彦『新・古代出雲史』 藤原書店
速水侑編『図説日本仏教の歴史-平安時代』佼成出版、1996年。
速水侑『地獄と極楽『往生要集』と貴族社会』吉川弘文館、1998年。
末木文美士『日本仏教史』新潮文庫
『法然と浄土信仰』読売新聞社、1984年
『「死」にまつわる日本語辞典』
『栄華物語』巻第三十、角川書店版
小田晋『日本の狂気誌』
笠原一男『女人往生思想の系譜』吉川弘文館、1975年。
笠原一男・小栗純子『生きざま死にざま-日本民衆信仰史』
                      教育社、教育社歴史新書、1979年。
宮田登編『性と身分』春秋社
『図説神秘の世界:浄土と地獄』世界文化社
『死と来世の本』学研
『浄土の本』学研
『日本美術全集9』
『日本絵巻大成7』
『日本絵巻大成24』

「仏典の女性差別どうする-女人五障・変成男子」2019年6月18日朝日新聞朝刊
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