オンライン授業/西ヨーロッパ地域研究A「ラングドック・ルシヨンの歴史と文化」

第3回/5月26日(火)/古代ローマ時代のラングドック・ルシヨン/その1(前半)
 
(※ページの画像がうまく読み込まれない場合は、再読み込みすると、ちゃんと表示されると思います)
 

①古代ローマの都市文明                         
古代ローマは、都市国家ローマから出発し、周辺の都市国家群を次々と征服し、
紀元前272年にはイタリア半島を統一します(この頃は共和政期で、まだ「帝国」ではありません)。
紀元前27年にはアウグストゥス(オクタウィアヌス)が事実上の帝政を開始します。
世界史の教科書などでも、このアウグストゥスをローマ帝国の初代皇帝としています。
共和政ローマはいよいよ
「ローマ帝国」となるわけです。
その後もひたすら征服戦争と領土拡大を続け、
第14代皇帝トラヤヌス(在位98-117年)の時に、ローマ帝国の領土が最大版図となり、
地中海から今の西ヨーロッパを含む大帝国を築き上げます。


紀元210年頃のローマ帝国領土(Wikimedia Commonsより


ローマは、その広大な領土を、ローマ的な都市システムで支配しました。
「都市」は「古代ローマ文明の中核・本質そのもの」であったとも言われます。

ある西洋史研究者は次のように述べています。
「ローマ国家の領域支配の問題を検討する時に、
前提としておさえておかなければならないことがある。
それはローマ全史、全地域を通じて、ローマの統治機構の中核は「都市」であった、
また、そうでない地域、そうでない時代にはそうあろうとした、ということである。
これはローマ国家構造の基本的特質として承認されるだろう。」

(岩井経男『ローマ都市制度史研究』水星社、1988年、60頁)


古代ローマの都市は、多くの場合、幾何学的な都市計画(都市プラン)を持ち、
そこにはさまざまな
「公共建造物」が建てられました。
長方形で広いフォールム広場、民会・元老院議場、神殿・会堂(バジリカ)、
元首・皇帝の壮麗な宮殿・神殿、円形劇場、闘技場、公共浴場、水道、記念凱旋門、などなど。

ローマの円形闘技場コロッセオ


イタリア・ポンペイ。中央には縦長のフォールム広場。その周囲を神殿やバジリカ、市場などが取り囲む。


また都市には、何キロも(時には何十キロも)遠くから「水道」が作られて水が引かれ、
都市の中の各所に配水しました。
その水を公共浴場や、個人の邸宅の庭の泉水や浴場に流しました。
ヤマザキマリの
マンガ『テルマエ・ロマエ』でも知られる、
あの「ローマのお風呂」ですね。
下水だって完備です。
「トイレ」は公共のものから個人の邸宅のものまで、いわば水洗式のものでした。

広場や道路は石畳で舗装されています。
円形闘技場では剣闘士の戦いとか、さまざまなイベントが行われ、
パンも無償あるいはとても安い値段で人々に供給されました。
いわゆる
「パンとサーカス」の世界ですね。
街の中には居酒屋もありました。

一言で言うと、古代ローマ人は、
非常に快適なシティライフを満喫していたわけです。
しかも金持ちであればあるほどです(あ、これは今でもそうかも知れませんね)。

そうした都市と都市を結ぶために、
これまた石畳で舗装された一直線の
「ローマの道」が、
帝国中に張り巡らされました。
(南仏ラングドックのローマの道については後述します)


ローマ帝国の主要道路網(P. A. Clément)。

さて、こうしたローマの高度な「文明」は、
征服された各地の土着の人々を仰天させました。
なんて
快適で便利な文明なんだろう!
ローマの支配のもとに組み入れられるのも、そんなに悪いことないじゃん!
みたいな感じですね。
そして実際、多くの地域で住民たちはローマ文明の恩恵を
享受したのです(ただし奴隷の生活は別です)。

今のヨーロッパの都市の中でも、かなり多くの都市が、
実は古代ローマ時代の都市から発展したものなのです。
ローマ起源の都市は、ヨーロッパでは驚くほど多いのです。
とりわけかつてローマの領土であった、イタリア、スペイン、フランス、
ベルギー、スイス、ドイツの西部、イギリスなどです。


②ナルボンヌ                           
さて、この授業のテーマであるラングドック・ルシヨン地方に目を向けましょう。
前回の授業でも説明したとおり、ローマは今の南フランスに足場を築き、
紀元前121年、そこに
属州ガリア・ナルボネンシス
(仏:Gaule narbonnaise/ラテン語:Gallia narbonensis)を設定しました。
そしてその首都としてローマの植民都市ナルボ
(正式には「コロニア・ナルボ・マルティウス/Colonia Narbo Martius」)を建設します。
現在のオード県の
ナルボンヌ(Narbonne)です(以下、「ナルボンヌ」とします)。

上の地図を見るとこのナルボンヌの位置は、
イタリア(東)、スペイン(南)、ガリア北部(フランス中・北部)、
ガリア西部(フランス西部・大西洋岸)
を結ぶルートのちょうど中間地点であり、
それらのルートが交わる交通の要所であることが分かります。
しかも地中海に近く、海上交易の拠点でもありました。

これは、イタリア・ローマ近郊の古代遺跡オスティアに残る床モザイクです。
船と港の建物の上の方にラテン語で
「NAVI NARBONENSES」と読めます。
ラテン語で「NAVI」は「航海」を表します。
当時のナルボンヌの海上交易の繁栄ぶりを表していると思われます。

このように、ナルボンヌの街は、古代ローマ時代には
ローマ属州ガリア・ナルボネンシスにおける政治的・経済的な
中心都市のひとつとして大いに繁栄したのでした。


紀元前45年には、ガリア(後のフランス)征服戦争を行った
カエサル(シーザー)が、第10軍団の退役兵を入植させています。
「これまで軍隊でご苦労さんだった。これからはナルボンヌで
ゆっくりと豊かな老後を過ごしてくれ」てな感じでしょうか。
紀元1~2世紀の最盛期の街の広さは80~100ヘクタール、人口は3万5千を数えました。

先に述べましたが、古代ローマの多くの都市がそうであったように、
このナルボンヌにも、ローマ時代には、フォーラム広場、円形劇場、バジリカ(多目的公会堂)、
神殿、公共浴場、記念凱旋門、水道などがありました。


現在のナルボンヌ。大司教宮殿前の広場。

②-1/ローマ時代の道路
今、ナルボンヌを訪れて、古代ローマ時代の面影を感じさせるものは、
しかし実はそんなに多くはありません。


まず大司教宮殿前の広場にある、
古代ローマ時代の道路の舗装面の発掘展示です。
この広場は、上の地図の黄色い印で示した場所です。
北(上)から来たローマ時代のドミティア街道が、
かつてのフォールム広場(公共広場)を通って、川を渡る手前です。
川を渡ると、ドミティア街道はさらに南へイスパニア(スペイン)に向かいますが、
西(左)、つまり大西洋方面に向かうアキタニア街道と分岐します。
(古代ローマ時代のドミティア街道については、後述)




今から2000年前の古代ローマ時代のメインストリートの舗装面が、
現在の地表面のおよそ2メートル下にあります。
石で舗装されています。ここは荷車や馬車が通りました。
その両側は人が歩くための歩道になっています。
写真では、右側の歩道部分に二人の女性が立っています。


ところで、いつも思うのですが、どうして今から数百年も前の
人間の生活の跡が、
何メートルも下から出てくるのでしょうか?
言い換えれば、どうしてそれらが時とともに、何メートルも下に埋もれてしまうんでしょうか?
日本でも、例えば京都とかの発掘現場では、
平安時代の貴族の屋敷の跡とかが、現在の地表の何メートルも下から出てきたりするのです。
いったいどうして、生活面が、いつの間にか何メートルも下に埋もれたりするのでしょうか?
何百年もかけて、じわりじわりと埋もれていくということなのでしょうか?
ちょっと想像してみて下さい。
皆さんが今住んでいる家や下宿の前の道が、
あるいは皆さんがいつも買い物とかする商店街の路面が、
西暦2500~2600年頃には、何メートルも土の下に埋もれている様子を。。。。
考えれば考えるほど、不思議ですね。



②-2/ローマ時代の墓碑・碑文の埋め込み
ナルボンヌにおける古代の面影は、この広場にある大司教宮殿の壁にも認められます。
ヨーロッパでは、中世になって、教会や城や住居などを建てるときに、
使わなくなった古代ローマ時代の建造物(時には墓)から石を取ってきて
再利用することはしばしば行われました。
遠くの採石場から石を切り出して運んでこなくても、
すぐ近くの古代の神殿などの石をそのまま使えば手間もかからないし、ラクですね。
しかもローマ時代の建物の石は、非常にきれいに切り整えられていることだし。

上に貼り付けた「大司教宮殿前の広場」の写真の、
ちょうど左側の大きな塔の土台部分に、彫刻の付けられた次のような古代の石が
いくつも埋め込まれています。

  

②-3/ローマ時代の墓碑・碑文博物館
上で示したローマ街道の画像で、ドミティア街道とアキタニア街道の分岐点近くに、
ローマ時代の
墓碑・碑文博物館(Musée lapidaire)があります。
これはかつてのノートル=ダム=ドゥ=ラムルギエ教会(Notre-Dame de Lamourguier)が
フランス革命の後、使われなくなったことから、それを後の時代に
ナルボンヌの街とその周辺で見つかった古代ローマ時代の考古学的な遺物、
とりわけ石棺、墓碑、碑文、神殿などの彫刻などを集めて貯蔵・展示するための
博物館として再利用したものです。

ですので、外観は大きめの教会なのですが、
中に入ってみるとビックリします。
今から2000年前の古代の石が大量に積み重ねられていて、
まるでピラミッドの中にいるような感覚になります。
とにかく大量の古代の墓石や碑文の石が累々と積み重ねられています。
また古代末期~中世初めにあたる、紀元4~5世紀頃の初期キリスト教時代の
石棺なども保存・展示されています。
ちなみに、この教会の中は、古代の石のニオイがムンムンと充満しています。
画像だけからはそれを伝えられないのが残念。



  

上の右側の写真に写っている右上の端の墓石を拡大したのが次の写真です。
古代ローマ時代の夫婦の墓石です。

日本のお墓では決して見ませんが、
古代ローマ人は、
墓石に生前の自分たちの姿を彫刻しました。
そして自分たちの思い出を後生に伝えようとしました。
「生前の自分はこんなだったんだよ」みたいに。

このローマの墓では、夫と妻が仲良く向かい合っていますね。
いったいどんな夫婦だったのでしょうか?
そしてこのナルボンヌで、二人はどんな人生を送ったのでしょうか?
この墓石を見る限り、きっと仲睦まじい幸せな夫婦だったのでしょう。
もっともこのような墓石を注文して作れるだけの経済力を持った、
それなりに裕福な夫婦ではあったと思いますが。
ちなみに最近の日本では、死んだ後まで夫の墓に入りたくないと言って、
妻が自分の墓を別に作ったりするそうですね(笑)。




②-4/ローマ時代のホレウム(horreum)
ナルボンヌの最後は、街のなかに残る古代ローマ時代の
地下倉庫の遺構です。
「ホレウム」と言い、紀元前1世終わり頃に建設されたと考えられています。
場所は大司教宮殿の少し北にあります。
入場料を払って地下に降りると、地上から5メートル下に古代の地下倉庫(回廊)が残っています。
穀物、ワイン、オリーブオイルなどの食料、その他の物品が貯蔵されていました。
あるいは商人たちの商店もあったようです。
同じような古代ローマ時代の地下回廊は、南フランスではナルボンヌの他には
プロヴァンス地方のアルル(Arles)にも残っています。

  
ナルボンヌに残る古代ローマ時代の地下倉庫(地下回廊)


Muséede l'Horreum de Nrbonne, Guide de visite.


この地下倉庫は、全体が長方形をしていて、北翼は約38メートル、
西翼が50メートルあります。そして通路の両側には、物資を置いておくための
小さな部屋が並んでいました。
発掘されて現在見ることができるのは、この北翼と西翼のみです。


 →第3回の後半に続く


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