オンライン授業/西ヨーロッパ地域研究A「ラングドック・ルシヨンの歴史と文化」
第6回/6月23日(火)
オード県とエロー県のロマネスク教会(前半)オード県
(※ページの画像がうまく読み込まれない場合は、再読み込みすると、ちゃんと表示されると思います)
前回は、東ビレネー県のロマネスク教会について説明しました。
今回からは、そこから順に北へ上っていく感じで、
前半がオード県(Aude)、そして後半がエロー県(Hérault)の
ロマネスク教会についてお話しします。
「ロマネスク」とはどういうものか、ということについては前回(第5回)の前半で
説明しましたので、確認したい人は、そのページを見て下さい(まだしばらくは削除しません)。
あと、用語の話なんですが、キリスト教の「教会」のことを、
日本語ではしばしば「聖堂」と言ったり「教会堂」と言ったりします。
ヨーロッパではすべて「チャーチ」(英語)、「エグリーズ」(フランス語)、
「キルヘ」(ドイツ語)、「キエーザ」(イタリア語)、「イグレシア」(スペイン語)です。
この問題については『フランスの「教会」と「聖堂」の日本語表記について』
(http://meditation.nn-provence.com/newpage131.html)をご覧下さい。
この「西ヨーロッパ地域研究A」では、とりあえずすべて「教会」とします。
①リュー=ミネルヴォワの聖母被昇天教会
(L'église de l'Assomption-de-Notre-Dame de Rieux-Minervois)

12世紀のロマネスク様式の教会です。
通常の四角形、あるいは十字架形ではなく、平面プランは円形(多角形)です。
これはフランスでもそんなに多くはなく、しかもこれはラングドックでは例外的なものです。
丸い教会で有名なのは、今のイスラエルのイエルサレムにある「聖墳墓教会」です。
イエス・キリストの墓があるとされる教会ですね。
フランスにある円形の丸い教会は、
イエルサレムのこの「聖墳墓教会」をモデルにしていると言われています。

イエルサレムの聖墳墓教会 リュー=ミネルヴォワの聖母被昇天教会
リュー=ミネルヴォワの聖母被昇天教会は、中央の鐘楼は7角形です。
ただし、この鐘楼自体はゴチック期以降に改修されたものです。
教会の内部は、一番外側が14角形の多角形です。
内側の丸い内陣部分は、鐘楼と同じ7角形で、円柱と方形(四角)の柱に囲まれています。
キリスト教では、「7」という数字には、特別に意味が込められていると言われます。
例えば『旧約聖書』の「箴言」第9章の冒頭には
「知恵は家を建て、7本の柱を刻んで立てた」とあります。

リュー=ミネルヴォワ(2006.3.9)
教会内部の一番外側の壁に並んでいる柱の柱頭部や、円形の内陣の柱の柱頭部には、
さまざまな彫刻がほどこされています。
有名なのは「聖母被昇天」の柱頭です。
聖母マリアは亡くなった後、天国に昇天します。
マンドーラ(光輪)の中にいる聖母は目を閉じ、
天使たちによってふわりと持ち上げられています。
聖母マリアは、イエスほど神性があるわけではないので、
自分の力だけで天国には上れません。なので天使たちに天国まで「引き上げて」もらう必要があります。
なので聖母「被昇天」と言うのです。

天使たちに天国に引き上げられる聖母マリア
マリアを天国に引き上げる天使たちはひざまづき、羽を風に流しながら、
顔を柱頭の四方へと向けています。
聖母や天使たちは個性的でリアルな顔をしいます。
特に、目がアーモンドの様な形をしているのが特徴です。
これは東ピレネー県のキャベスタニー(Cabestany)で活動した職人の手によるものです。

聖母マリアを天国に引き上げる天使たち
②コーヌ=ミネルヴォワのサン=ピエール=エ=サン=ポール教会
(L'Église Saint-Pierre-et-Saint-Paul de Caunes-Minervois )

この教会は、ベネディクト会修道院付属のもの。
現在の建物(後陣)は、11世紀~12世紀のものです。
有名な後陣は2層からなり、下は古代ローマ風の柱が並び、
上にはロンバルディア帯(小さめの半円アーチがアーケードとなって並ぶ帯状の彫刻装飾)が付きます。
中世ロマネスク様式の教会ですが、まるで古代ローマの建築物を見ているかのような印象です。

コーヌ=ミネルヴォワ(2006.3.9)
12世紀の2つの塔に挟まれています。
身廊部分は14世紀に建て替えられました。
地下のクリプト(地下礼拝堂)は、8世紀のカロリング時代のもので大変に古いものです。
③アレ=レ=バン修道院(Abbaye d'Alet-les-Bains)

最初は9世紀にここに修道院が建てられました。
その後10世紀にさらに大きな修道院の建物が建設されました。
11世紀にはかなり勢力を持ち、繁栄しました。
しかしその後、14世紀には、司教のいる大聖堂となりますが、
その後はうち続く戦乱や宗教戦争などによって被害を受け、次第に荒廃しました。
19世紀からは遺構のまま修理・保存が進められています。

上の図の、黒い部分が11世紀~12世紀の教会の建物です。
その後、14世紀に赤い部分を増築して、黒いロマネスク期の後陣(黒い矢印で示した部分)を
飲み込む形で、教会自体を拡張しました。
これは非常に珍しい拡張の仕方です。
下の写真(左)は、そのロマネスク期の後陣です。
(右)はそこに付いている壁付き円柱の柱頭彫刻です。
古代ローマ時代の影響を色濃く見ることができます。

アレ=レ=バン(2015.8.30)
④フォンフロワド修道院(Abbaye de Fontfroide, Narbonne)

ナルボンヌの南西15キロの山の中、糸杉で囲まれた落ち着いた場所にあります。
「フォンフロワド」の「フォン」は「泉」、「フロワド」は「冷たい」
という意味で、古くから冷たくて清らかな泉がわくところだったのです。
シトー修道会(11世紀末に創建。質素で禁欲的な修道生活を目指した)が、
12世紀半ば、この地にもともとあったベネディクト派の修道院を傘下に収め、
その後、修道院の建物を整備していきました。

フォンフロワド修道院の平面図
時代は12世紀後半以降で、しかもシトー会なので、半分ロマネスク、半分ゴシックです。
シトー会は、修道院におけるきらびやかな儀式や装飾を嫌い、
すべてにおいて、簡素・簡略を目指しました。
なので、この修道院の教会も、装飾などは最小限で、実にシンプルです。
しかしその分、静かな祈りの境地において、聖なる世界を目指す深い信仰心が追求されたのでした。

フォンフロワド修道院付属教会(2018.3.12)
修道院のクロワトル(中庭と回廊・下の写真)も、小さなアーチはロマネスク様式の半円形ですが、
それを囲むようにある大きなアーチは、ゴシック様式の尖頭形です。
修道士たちは、この回廊を巡りながら、祈ったり瞑想にふけったりしたのでした。

下の写真(左)は、修道士たちの「会議室」です。ここで修道院の運営などについて
話し合われました。もちろん絶対的に力を持っていたのは修道院長でした。
下の写真(右)は、修道院の建物の出入口についている柱頭彫刻です。
シトー修道会なので、装飾もきわめて簡素です。線刻の図形みたいなシンプルな彫刻ですね。

「前半」最後の写真は、修道士見習いの「助修士」たちの共同寝室です。個室ではなく、大部屋です。
当時はここに簡素なベッドを並べて大勢の修道士たちが寝ていたのでしょう。
石造りなので、夏はひんやりとして涼しそうですが、冬はさぞかし寒かったでしょうね。

Dormitorium(Le dortoir des frères convers)
本日の「前半」はここまでです。
「後半」ではエロー県のロマネスク教会を、いくつか取り上げることにします。
| →第6回の後半に続く |