オンライン授業/西ヨーロッパ地域研究A「ラングドック・ルシヨンの歴史と文化」
第4回/6月2日(火)/古代ローマ時代のラングドック・ルシヨン/その2(前半)
(※ページの画像がうまく読み込まれない場合は、再読み込みすると、ちゃんと表示されると思います)
★★本日は、授業の後で小コメントの提出があります。「第4回の後半」の最後で告知します★★
前回は古代ローマ時代のラングドックで中心的な役割を果たした都市ナルボンヌを取り上げましたが、
今回は、同じように重要な古代都市であったニームを前半で、
そこに水を供給していたローマ水道と有名な水道橋ポン・デュ・ガールを後半で取り上げます。
今日は前半がちょっと長いです。
①古代都市ニーム(Nîmes)
前回、ローマは、その広大な領土をローマ的な都市システムで支配したと言いました。
「都市」は、「古代ローマ文明の中核・本質そのもの」だったのです。
古代ローマの都市に、多くの場合共通するのは次のようなものです。
幾何学的な都市計画(都市プラン)
石で舗装された街路
フォールム広場、円形劇場、闘技場、公共浴場などの公共建造物
都市の民会議場、神殿・会堂(バジリカ)、記念凱旋門
都市に水を供給・あるいは排水する上下水道
都市全体を取り囲む城壁
都市の外に立ち並ぶ墓
大きな都市になればなるほど、これらがすべて備わり、
極めて快適なシティライフを都市住民に提供していました。
これが今からおよそ2000年前のローマの都市文明です。
その時代、日本はまだ弥生時代の後半くらいの頃で、
そもそも都市などはどこにも存在していません。
大きな集落がある程度で、多くの場所では少しばかりの水田農耕と、
狩猟や漁労で生活していました。
まだ粗末な衣類を着て、竪穴住居に住んでいました。
さて、ラングドックに話を戻しましょう。
ラングドックの北の、今の「ガール県」にあたるところに古代都市ニームがありました。
ジーンズで使われる生地の「デニム」は、この南仏のニームで最初作られた生地に由来しています。
「デニム」とは、「ニーム産の」とか「ニームの」という意味です。

古代ローマ時代のニームの街の名前は、
「コロニア・アウグスタ・ネマウスス」(Colonia Augusta Nemausus )、
略して「ネマウスス」などと言います。
ローマが入ってくる前は、土着のケルト系ヴォルク=アレコミク族が、
聖なる泉がわくこの場所にオッピドゥム(要塞集落・要塞都市)を作って住んでいました。
「ネマウスス」とは、この聖なる泉を意味する言葉でした。
この部族は周辺に24ものオッピドゥムを支配下に置き、
ニームはその首都の役割を果たしていました。
(この部族については、第2回の授業で紹介しました。)
ラングドックがローマの支配下になり、属州ガリア・ナルボネンシスになると、
ニームは上に示したような特徴を兼ね備えた大きなローマ都市となって行きます。
「コロニア」(英語で言うと「コロニー」)という名前が付いていることから分かるように、
最初はローマの植民都市でした。
ローマの植民開始の正確な時期は不明です(紀元前40年~30年頃とも言われています)。
一説にはカエサル統治下あるいはその死(紀元前44年)後に街が創建されたとも言われます。
紀元前30~20年頃には、エジプトから来たローマの退役兵たちが植民しました。
アフリカから来たため、この街のシンボルは「ワニ」です。

左側はニームで見つかったローマ時代のコインです。ワニが彫刻されています。
右側は今のニーム市の紋章(blason)です。やはり鎖につながれたワニがいて、
共にワニの上には「COL NEM」とあります。
ニームの古代名「コロニア・ネマウスス」の略語です。
市内のあちこちには、路面にやはりワニをあしらったメダル(写真下の左)がはめ込まれています。
また、市内中心部にあるマルシェ広場(Place de Marché)には、大きなワニの噴水まであります。
このワニ、すごく本物っぽいですね。観光客などはこれを見て、
一瞬ドキッとしますが、もちろんニセモノです(笑)。

以下、ニームで古代ローマ都市の記憶をとどめるモニュメントの
いくつかをこれから見ていきましょう。
なおこの街の名前は、古代名「ネマウスス」ではなく「ニーム」とします。
②古代の都市城壁とマーニュの塔
古代ローマ時代のニームは、周囲を全長6キロにもなる城壁(周壁)で囲まれていました。
下の地図の赤い線で表したのが古代ニームの都市城壁です。
建設は紀元前16年で、城壁の内部の広さは220ヘクタールあり、
その中に住民3~4万人が住んでいました。
かなり広い都市です。その繁栄ぶりが広さからでも分かります。
紀元2世紀のローマ皇帝ハドリアヌス(在位117年-138年)の皇后の家族はニーム出身でした。
彼は帝国内の巡察を頻繁に行ったことで知られていますが、紀元121年には、ニームに立ち寄っています。
かつてニームの街を取り囲んでいた城壁は、大部分がすでに失われてしまっていますが、
円形闘技場(上の地図のA)のそばに、城壁の土台部分が発掘されて見れるようになっていました。
一定間隔に丸い塔がならんでいた様子が分かります。
この発掘展示は、残念ながら今は埋められてしまって直接目にすることはできません。
城壁と丸い塔の土台(2005年2月25日撮影)
ニームの城壁の北端には「マーニュの塔」(La tour Magne/地図D)が残っています。
城壁の一部をなしていた大きな塔で、ニームの街を見下ろす小山(カヴァリエ山)の上に建っています。
なので遠くからでも見ることが出来ます。
例えば鉄道の車内からでも見えるので、この塔が見えたら「ああ、ニームに着いたんだ」と分かります。
紀元前15年に建てられたと言われています。
頑丈な土台部分を含めて、3層構造となっており、一番上の第4層は失われています。
現在の高さは地表からおよそ32メートルです。
マーニュの塔(1997.3.1)
③2つの城門/アウグストゥス門とフランス門
かつてニームの城壁にあった2つの門が残っています。
●アウグストゥス門(地図E/Porte d'Auguste)
東から来たドミティア街道がこの門を通ってニームの街の中に入りました。
かつては「アルル門」と呼ばれたこともありました。
最初は両側に半円形の2つの塔があり、防御の役割も果たしていました。
半円形のアーチが架かる、合わせて4つの通り道がついており、
中央の大きな通り道は荷馬車や戦車用のもので、左右両端の小さな通り道は歩行者用でした。
アウグストゥス門(1997.3.2)
●フランス門(地図F/Parte de France)
円形闘技場の近くに残されています。アウグストゥス門よりは重要性は低かったようです。
半円形のアーチがひとつだけ架かるシンプルな門です。
かつてはその両側に丸い塔がありましたが、今は西側のものの一部が残されているだけです。

フランス門(1997.3.1)
④円形闘技場(Amphitéâtre/Arènes)
ニームの円形闘技場(地図A)は、フランス語で「アンフィテアトル」とか「アレンヌ」と呼ばれ、
この街に残る最大のローマ遺跡です。
保存状態が良好で、規模などもプロヴァンスのアルルのものと対をなす兄弟などと言われます。
建設は紀元1世紀末~2世紀初め頃で、2万4千人を収容できました。

ニームの円形闘技場外観(2019.2.20)
外側は2層構造で、高さは21メートルあり、60のアーチが並びます。
それらのアーチを支える円柱の柱頭部はドーリス式(平べったい形)です。
最上部には、日よけの幕を張るための棒を差し込む穴がある突起部が残っています(下の写真の矢印)。
人々は暑い日差しを幕でさえぎり、快適に剣闘士たちの闘技を楽しんだのでしょう。

この円形闘技場を上から見ると、縦長の楕円形です。
横133メートル、縦101メートルあります。
(グーグルアース)
ニームの円形闘技場内部(2019.2.20)
古代ローマ時代の円形闘技場では、人々は剣闘士たちの命がけの戦いに熱狂しました。
リドリー・スコット監督、ラッセル・クロウ主演の映画『グラディエーター』(2000年・アメリカ)
の世界ですね。人間同士の戦い、人間と猛獣との戦い、最後はキリスト教徒を猛獣に襲わせたり、
血を見るイベントに人々は押し寄せ、熱狂しました。「パンとサーカス」とよく言われる
ローマ時代の社会のひとつの光景です。
でも、今でもこのニームやアルルの闘技場では、夏のシーズンには闘牛が行われます。
闘牛士と血だらけになった牛の戦いを、観客たちは熱狂しながら見物しています。
今も昔も人間性はそんなに変わるものではありませんね。
古代の剣闘士たちの戦いを描いたモザイク画(3世紀) 敗者にとどめを刺す勝者。陶器製のランプ(紀元1世紀)
なおニームでは、それまでの考古学博物館が老朽化したこともあって、
2018年に古代ローマ文明を扱う博物館として「ロマニテ博物館」(Musée de la Romanité)が、
円形闘技場の向かい側に新しく作られました。
古代ローマ時代のニームにまつわるさまざまな展示や、
ニームとその周辺で見つかった古代の遺物を見ることが出来ます。
最上階にはとっても美味しいレストランも併設されてます(笑)。
ロマニテ博物館(2019.2.20)
その展示物からひとつだけ紹介しましょう。
下の写真は、1世紀終わりから2世紀初めにかけての夫婦の墓碑です。
19世紀にニームで発見されたものです。
夫はセクストゥス・アドジェニウス・マクリヌス(Sextus Adgennius Macrinus)と言い、
軍人にしてニームの街の地位の高い役人だった人。
一方妻はリキニア・フラビラ(Licinia Flavilla)と言って、神官に仕える巫女だったようです。
妻の細かく編んだ髪の毛と、夫が身につけている軍隊の鎧(よろい)に注目しましょう。
第3回目の授業の「後半」でも、ナルボンヌの夫婦の墓碑を紹介しましたが、
ニームのこの夫婦も、恐らくは仲の良い夫婦であったことでしょう。
二人はどんな人生を過ごし、どんな風な最期を迎えたのでしょう。
皆さんも、将来は夫婦で入るこんな墓を作ってみてはどうでしょうか(笑)。
ニーム、ロマニテ博物館(2019.2.20)
④古代の神殿メゾン・カレ(Maison Carrée)
地図の「B」のところにあります。
フランス語で「メゾン・カレ」というのは直訳すると「方形の家」とか「四角い家」になります。
ローマのアポロン神殿を模倣して、紀元前1世紀末頃から建設が開始され、
紀元2~4年頃には完成されたようです。
今はななくなってしまったニームの「フォーラム広場」の一角にありました。
奥行き26メートル、幅15メートル、高さは17メートルあります。
15段の階段が付けられた基壇の上に建っています。
段数が奇数なのは、右足から登り始めて、同じ右足で基壇の上に達するように設計されているからです。
皇帝崇拝のため、初代ローマ皇帝アウグストゥスの子供たちに捧げられました。
すべての古代神殿と同じように、列柱で区切られた拝廊と、神を祭る聖室からなっています。
立ち並ぶ柱の見事な柱頭部は、アカンサスの葉が下から上に広がるコリント様式です。
その他の彫刻や円柱彫刻も非常には端正です。
古代の後、中世期以降は、公的施設、教会、役所、厩などに使用されてきました。
18世紀のフランス革命の時に国有財産として売却され、ガール県がこれを購入し、
今日に至るまで修復作業が続けられています。
④ディアーヌの神殿(Temple de Diane)
地図の「C」にあります。
古くからの聖なる泉「ネマウスス」の近くに1世紀頃に建設されました。
初代皇帝アウグストゥスに捧げられていました。
建設当初の正確な用途はよく分かっていませんが、一種の図書館であったとも考えられています。
中世にはキリスト教の修道院の建物としても使用されました。
宗教戦争(フランスのカトリックとプロテスタントの争い)の際、1577年に破壊されました。
建物は、長さ15メートル、幅10メートルあります。
北と東の側壁が残り、とりわけ北の側壁内部には、
三角形と半円形のペディメントを持つ5つの長方形のニッチが交互に並んでいます。
入口にあたる西側の壁は2世紀に改装されたものと言われますが、保存状態はあまり良くありません。
天井は半円筒形のトンネル・ヴォールトでした。
ディアーヌ(またはディヤーヌ、ディアナ)は、古代では月の女神、狩猟の守護神です。

ディアーヌ神殿(2005.2.25)
本日の「前半」はここまでです。「後半」では古代ローマの水道と、
世界遺産ともなっている有名な水道橋ポン・デュ・ガールを取り上げます。
| →第4回の後半に続く |
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